発達障害な僕たちから2

発達障害と診断され、2次障害でひきこもった東大、青木、シンゴと50代男Aとスタッフ吉村が社会復帰目指す日常を綴りながら支援についても書いていきます。

不登校の子どもたちと40年間接してきた養護教諭の私。

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そんなに嫌そうな顔しないでね。2016年5月フィリピンダバオ市内喫茶店にて





中学の養護教諭を退職してすでに4年が過ぎた吉村です。

在職40年の総括をしたいと思ってきました。

高齢者がコロナウィルスにかかると死に至る可能性が強いと聞き、書くなら今だと決断した私です。

 

 

40年間の総括。

多くは後悔です。

 

 

多くの生徒の悲しみに出会いました。

色々な悲しみがありましたが、ここでは、不登校に関することしか書きません。

 

 

もっとも多い悲しみは、中学校に馴染めないということです。

みんなと仲良くしたいのに、うまく輪の中に入っていけない。

勉強も運動も集団行動も何もかもみんなのようにできないと悩んでいた子どもたちがどれだけ多くいたか。

 

 

クラスから保健室に駆け込んで来る生徒たち。

保健室の扉を開けて、すぐに大粒の涙を流して体を震わせた彼女。

「先生私死にたい。」と自傷の傷を見せてくれた子ども。

 

 

そんな子どもたちの話を聞き、カウンセリングを施し、親との面談もおこない、そして担任との話し合い。

そのような段階を経て、彼女たちはクラスに帰っていくのです。

 

 

と言いたいところですが、そのようになることより、ならないことの方が圧倒的に多かったです。

 

 

理由ですか。

私の力不足でしょうか。

言い訳になると思いますが、現場にいて圧倒的に時間が足りませんでした。

 

 

1人の養護教諭が面倒を見ることができるのはせいぜい20人程度だと思っています。

現実にはもっと多くの子どものお世話をする場合もありました。

 

 

そして、私に与えられている時間は3年間なのです。

3年間で、それぞれの子どもが持つ困り感や苦手さをどうやって改善させれば良いのでしょうか?

 

 

多くは十分に回復することができずに、3月に中学から送り出すことになるのです。

そしてまた4月には新しい生徒たちが私の目の前に現れるのです。

 

 

一人一人の子どもの総括も十分にできないまま、また新らたに子どもたちに対応しなければならないのです。

 

 

 

目の前の問題をどうするか。

そのことを考えるだけで精一杯の40年間でした。

それは後悔ばかりの40年間なのでした。

 

 

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