発達障害な僕たちから2

発達障害と診断され、2次障害でひきこもった東大、青木、シンゴと50代男Aとスタッフ吉村が社会復帰目指す日常を綴りながら支援についても書いていきます。

自己理解のすすめ。俯瞰的に見ることの大切さ。大バカ野郎

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飛行機からのこんな風景大好きなんです。とても理解しやすいから。
 

 

僕は頭が悪いと思っていた。

学校の授業が何もわからなかったから。

特に板書が苦手だった。

 

 

先生の書くスピードが早くて、早くて。

書き写す前に消してしまう先生がいたな。

すごく腹が立って仕方がなかった。

 

 

 

だから、小、中の授業は僕にとってはスリーピングタイムだった。

 

 

 

でも自分が関心があることにはとても熱心だった。

父親が天文学が好きで、図鑑をたくさん所有していた。

父親の部屋に忍び込んで、その図鑑を見ることがとても好きだった。

 

 

綺麗な天体の写真にひき込まれていた僕だった。

父親は先生をしていた。

担当教科は数学なのに、「天文学者になり損ねた。」と何かに触れて、独り言を言う人だった。

 

 

 

「医者にもなりたかった。」と言うこともある。

それは僕たち家族との会話ではなく、独り言なんだ。

それで、〈人体図鑑〉なんかも本棚に飾ってあった。

 

 

 

図鑑を見てスケッチブックに模写するのが父のお気に入りだった。

 

 

僕と父親は一度も会話らしい会話をしたことがなかった。

ただ、図鑑を見ている僕をとても気に入っていた父だった。

 

 

「お前はこの図鑑の中で何が1番気に入ったのか。」となんども同じ質問をしていた父を思いだす。

 

 

それは、別に子どもとの会話を楽しんでいるのではなく、自分の世界を楽しんでいるだけのように今思うとそう感じる。

父のことを改めて考えてみたら、父もアスペルガーだったと思います。

 

 

おかしかったから。

病気でなくなってしまったけれど。

まあ、大変でしたよ。

 

 

僕にとっては大変な父だった。

理解できなかったから。

その行動、発言全てが。

 

 

父親に、母親と結婚した意味はなんなのかと聞いておくべきだった。

母が僕を産んで嬉しかったのかとも聞きたかった。

 

 

 

母もまたそんな父の世話をしなければならず、大変だったと思います。

 

 

母にとっての、僕の存在と父の存在。

僕にとっての父の存在と母の存在。

 

 

正直よくわからないんですよ。

家族ってなんだってね。

 

 

はあ、ほんと大変だよね。

大変だったよ。

だから、結婚に対して良いイメージが持てないから、一生独りでいると決めていた僕です。

 

 

しかし、そんな僕を今の彼女が根底から変えてくれました。

 これから、僕は愛する人と結婚をして新しい家庭を築くのです。

 

 

しかし、将来を考えた時に不安になって、青木さんに聞きました。

「僕が作る家庭も、僕の両親のような家庭になるんでしょうか?」ってね。

 

 

「わからないな。けれど、そうならないように努力しようと思っているんでしょ。また、ご両親の何が問題だったかも理解できているんだから、ご両親のようにはならないんじゃないのかな。」

 

 

自己理解をすること。

俯瞰的に物事を見ること。

 

 

 

これアスペルガーの僕にはとても難しいことなんです。

でも、頑張って練習すれば、少しはましになるんです。

 

 

 

 

僕はそう言われて、徹底的にスタッフに練習をしてもらった。

少しはましに他者とコミニュケーションが取れるようにと。

 

 

付け加えておかないといけない。

 

 

父親とのことを書きましたが、これはスタッフさんとの話し合いの中で、頭の中を整理してもらったんです。

それで、まあ落ち着いて父親のことを書くことができています。

 

 

 

正直、自分と血の繋がりがある人たちのことは思い出したくもなかった。

今は落ち着いている僕です。

 

 

長い時間の中でのケアが、僕を少しずつ落ち着かせていったんだと思います。

まあ、感謝しかないですね。

 

 

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