以前にも書きましたが、僕の父親は歴史探索が好きなんです。
父は毎日定時に帰ってきます。
その後は書斎に籠り趣味の時間です。
夕食はテーブルに置いてある自分の分を、書斎に持ち込み1人で食べます。
時には僕たちと一緒に食べていたのだけれど、いつの頃からか1人で食べるようになりました。
でも、僕が不登校になり始めたら、父親は時には母親と一緒に食べていました。
そのことが不満だと母親はいつも嘆いていました。
母親が父親に話しかけても、何も答えません。
母親から言われるままです。
僕にしても父親から何かしてもらったという記憶はありません。
僕が小さい時には、クリスマスとか誕生日とかプレゼントをもらったのだけれど、いつも母親からでした。
親戚の冠婚葬祭も式がすむと、すぐに帰ってしまっていた父親です。
僕が不登校になってからは、僕の世話をするという理由でほとんどの親戚付き合いをやめていました。
母親が「父親が死んでも涙は出ないな。」って、悲しそうに話していたのを思い出します。
それが、僕が不登校になったことで、両親のコミュニケーションが生まれたのです。
小学校、中学校ではありませんでしたが、高校を通信制高校にした時点から、流石にこれはまずいぞと思いはじめたらしいと母親が言っていました。
突然、父親から話しかけられた母親は、戸惑いながらも嬉しかったそうです。
と言っても、父親から「こうしたらどうだろうか」という提案は全くなく、母親が話しかけてきたら、何かしている最中(多くは自分の趣味のこと)でも手を止めて、母親の話を聞いていたそうです。
それだけでも、母は嬉しかったと言っていました。
しかし、僕がこの団体でお世話になって、状況が好転してからは父親は元の生活に戻っていったそうです。
母親は母親で、お友達と外に出ることをし始めました。
前回日本に帰って、母とは和解できたのですが、その時に「父親と結婚して良かったのか?」と聞いたら「お前のことを考えたら、結婚して良かったと思うけど、お前の存在を考えないなら、この結婚は失敗だった。」と言っていました。
「ご主人がアスペルガーで大変だという内容の本を読んでみたけれど、やっぱり同じだよ。相手のことをよく知らずに結婚したから失敗したんだよね。」
「でもまさかこんな人だとは思いもしなかった。この世の中にはお父さんみたいな人がいるんだよね。」
母は「もっとよく見ないといけなかったのかな?でも無理な話だよ。無理だよ。」って深いため息をついていました。
明日に続きます。
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