研修会にて。9年前くらいですか。色々とご一緒いたしましたね。
僕は程度の悪いアスペルガー。
小学校と中学校にはほとんど通っていない。
いわゆる不登校児でした。
中学を出てからは非行に走り、なんども警察に捕まりました。
父はなんとかしなければと危機感を抱き、会社を休んでまでして、僕の支援先を探しました。
母には「大変だから、僕が仕事を休んで支援先を探すから」と安心させました。
要は「母親がこれ以上関わるともっと大変なことになるから、黙っていなさい。」という思いを優しい言い方に変えたというわけです。
そして医療、フリースクール、寺、などをたらい回しにされた僕です。
どこも僕には向いていなかったのです。
みんな優しい人たちでした。
それは本当のことです。
まあ、今思いますと、やはり、9時から5時という区切った支援では僕の様な状況の悪い人たちにはあまり効果がないというわけです。
家族の様に一緒に寝食を共にする様な支援でないとダメだったんでしょうな。
さて、そんな中、医師からサポートセンターを紹介していただきました。
「君にはうちでなく、サポートセンターの様な手厚い支援をしてくれるところが良いんだよ。」と先生は言いました。
これが僕のターニングポイントになるとは父も僕もその時は思いもしませんでした。
父はサポートセンターの青木さんに、メールでことの次第を報告し、その後お会いできたのはなんと4ヶ月後でした。
10数年前にはすでに、相談や支援の依頼が日本中から来ていて大変なことになっていました。
そして支援をしてもらえることになりました。
僕がサポートセンターの青木さんに会えるまでに6ヶ月もかかりました。
誰も信用していませんでしたからね。
世の中の連中はみんなおいらをバカにする。
これ以上傷つけられるのはごめんだと固く思っていましたからね。
でもまあ、会って、「こいつなら、俺をバカにはしないし、喧嘩をしても俺の方が強いな。」と思いましたんで家から出ることにしました。
これ以上家にいると、家に火をつけるか、誰かを殺めてしまうなと思っていましたんで。
でもさすがの青木さんも俺には手を焼いていました。
なんせ、支援生活30年の青木さんでも、結局父親に俺への支援を1度断ったんですから。
「僕たちではお力になれません。」と言って。
サポートセンターの歴史で1番大変な支援だったのはこの俺だということです。
だって毎日の支援で13年間ですよ!!!
こんな支援、日本中探しても俺だけでしょ。
13年前、青木さんにはまだ毛が残っていましたからね。
確か支援を受けている人で、とても青木さんを慕っている青年がみんなに呼びかけて、「リアップ」をクリスマスプレゼントにしたいと言った奴がいました。
みんなでなんとか青木さんの悲劇を食い止めたいと必死でした。
支援を受けているみんなが、青木さんに「まだ、諦めるのは早い。」というメッセージを送ったのです。
でも運命は皮肉です。
あまりにも無残な仕打ちに、「神は本当におられるのか」と嘆き悲しんだ僕たちでした。
しかし、僕たちは彼の姿に学んだのです。
「あるがままに」と。
また明日。
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