10年間にわたって支援を受けてきました。
しかし、僕はADHDの特性を持つ人たちの様な変わり方をしませんでした。
彼らは、支援を受けて社会にそして学校に戻っていきました。
彼らは多くの選択肢を将来に見つけられるのです。
しかし、僕には限られた選択肢しかありません。
その違いは大きいのかもしれません。
ただ、僕はそんなふうには捉えられないのです。
それでは支援を受けても意味がなかったのか?
いいえ支援を受けてとても良かったと思っている僕です。
僕の何が問題なのかがわかったからです。
それがわかにらずにいれば、今でも混乱の中に僕はいたでしょう。
30年近くのひきこもり歴が40年になっていた。
そして失意の中で死んでいく。
そうならずに済んだだけでも支援を受けたことはとても大きかったと思います。
ADHDの特性を持つ人たちの様な変わり方に憧れたりしなかったのかと思われる方もいると思います。
正直僕の特性ではないですね。
そこが僕の特性たる所以なのです。
また、おいおい説明してきたいと思います。
とにかく、ADHDとASDでは支援の手段も、その目標も違います。
残念ながら支援の現場において、混同しているケースも時々見られますよ。
もちろん専門家の人たちはそうではないですが・・・。
変われるのかそれとも変わることが難しいのか?
僕の部屋は汚部屋でした。
僕はゴミが捨てられないのです。
空き瓶、空き缶、包装に使われていたプラスチック、ダンボール箱・・・・
捨て時、替え時がわからないパンツ、靴下、靴などなど。
貯まるわ貯まる僕の部屋のゴミ。
布団は敷いたままだから、すでに朽ちていました。
畳に僕の体の跡が鮮明に転写されていました。
「世間の皆様、僕は発達障害だからご理解ください!!」
って支援を受けなかったなら、今でもそう言っていたかもしれないな。
練習に練習を兼ねて、それが僕の日常生活になるまでになったとき、汚部屋が普通の部屋になったのです。
何も足が欠損している人に、立ち上がって歩きなさいと言っているわけではないのです。
できること、できないこと。
それが何かを見つけていくことも支援を受けたらできるのです。
さて、僕はとても関心のある講演会を見つけましたよ。
本田先生の講演会です。
テーマは
「発達障害、何がどこまで良くなる?」
視聴は有料ですが、僕は見ますよ。
僕の様な特性の人たちへの言及がされているのかどうか?
ADHDの人たちに対して、特別に言及する必要はないですよ先生。
すでに多くのことがもうわかっていることですから。
僕の様な特性の人たちはいまだに世間には理解されていないと思います。
僕たちは今でも宇宙人扱いなのですから。