発達障害な僕たちから2

発達障害と診断され、2次障害でひきこもった東大、青木、シンゴと50代男Aとスタッフ吉村が社会復帰目指す日常を綴りながら支援についても書いていきます。

多様性がひきこもりからの回復の要素 テル

 

 

僕は小学の時から学校に行けなくなりました。

中学も。

高校は通信制高校に行きました。

母親が見つけてくれたんです。

 

 

でも通信も行けなくて、それで高卒認定試験を受験しました。

そういうこともあって、通信制高校は終了となりました。

 

 

それから4年間全くのひきこもりです。

家から外に出られなくなりました。

怖いんです。

 

 

家から一歩出たら、周りが僕を攻撃してくると想像していたから。

どうしてそんな想像をするようになったかと言いますと、みんなが行くことができた学校に僕は行けなかったからです。

 

僕のような人がクラスの6割を占めていたら、不安にはならなかったと思います。

どう考えても僕の様な人は僕しかないないと思っていましたから、不安がとても強くなったのです。

 

 

とうとう、みんなが高校を卒業する頃にその不安はピークに達しました。

そして自分の部屋からも自由に出られなくなってしまいました。

雨戸も閉め切った状態でした。

 

 

 

で、そんな僕がどうやって社会に戻っていけたのか?

何度も何度もこのブログでその理由を書いています。

でも書く度ごとに気づきがあります。

 

 

僕が1番知りたいことはなぜ僕は回復できたのか?

それが知りたいのです。

 

 

確かに青木さんたちの支援は、僕にはとても効果がありました。

しかし、もし日本で同じ支援を受けたとしても僕には効果がなかったと思います。

やはり、日本を離れたことが1番の回復への効果だったと思うのです。

 

 

人の目が気になるから外に出られないのです。

その目とは、僕と同世代や僕の家の近所の人たちの目です。

日本から4,000キロも離れたら、誰も僕のことを知らないですよ。

 

 

だから僕は、フィリピンで借りたマンションから外に出ることができたのです。

最初はおっかなびっくりでしたよ。

「あなたのことを知っている人は1人もいない。」と何度も何度も僕を支援してくれるスタッフから言われて、なんとかフイリピンの自分の部屋から出られたのです。

 

 

日本の自宅から出る時は、マスクとサングラスをして、青木さんたちが用意した大きな車で自宅を出ました。

その時には、両親は僕に会わないでいいようにとホテルに泊まってくれていました。

 

 

そんな僕が今は元気なんですよ。

幸せなんですよ。

 

 

なぜ?

 

 

今、僕はシャルガオ島にきています。

そしてここで生活しています。

団体が運営するレストランでお手伝いをしています。

それで気づいたことがあるんです。

 

 

多様性という言葉です。

 

 

「そうなんだ。」ってわかったんですよ。

 

 

また明日。

 

 

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