発達障害な僕たちから2

発達障害と診断され、2次障害でひきこもった東大、青木、シンゴと50代男Aとスタッフ吉村が社会復帰目指す日常を綴りながら支援についても書いていきます。

30年ひきこもった僕の幸せ 東大

 

は東大卒業後、大学院に進みました。

大学院で初めて濃い人間関係に遭遇しました。

そして、研究員生たちから排除されてしまったのです。

僕は、役に立たないどころか、他の研究生たちの邪魔になるので、排除されてしまいました。

 

 

簡単にいうと他者とコミニュケーションが取りづらいからです。

スタッフたちは、そのような表現をしてくれますが、実際は〈コミニュケーションが取れない。〉と言った方が正しいでしょう。

 

 

その後30年近くひきこもってしまうのです。

 

 

50代になってこの支援団体に繋がりました。

母親から団体への支援依頼は、経済的に自立できるようにということでした。

3年ほどの支援で、僕は家庭教師として自分で生きていくだけのお金を稼げる様になりました。

 

 

自分の何が大学院時代の研究生たちの逆鱗に触れたのか?

ひきこもっていた30年近く、時々その出来事を思い出してみましたが、正直何が問題なのかはよく理解できませんでした。

 

 

この団体で支援を受けていく中で、混乱していた頭の中が整理されて、自分の中の問題点が整理されたのです。

 

 

そのことで、仕事をするまでに気持ちが前向きになったのです。

 

 

その後は日本に帰国する予定でした。

日本で家庭教師として生計を立てて生きていくことを考えていました。

 

 

しかし、フィリピンで生活していく中で、フィリピン人のおおらかさ、フレンドリーさに魅了されてしまったのです。

 

 

僕は他人に関心が持てない人間でした。

小川を覗き込んで、川面に泳ぐアメンボや小魚の泳ぐ姿を時間を忘れるくらい見続けることが大好きでした。

いつも動物や植物のことを考えていました。

 

 

それで友達らしい友達もいませんでした。

友達がいなくても平気だったんです。

高校でも、大学でも同じでした。

 

 

しかしフィリピンで様々な体験をしたことで気付かされたことがあったのです。

他人と同じ体験を共有する。

その中で、同じ感情をも共有する。

それが楽しいことだということ。

 

 

貧困地区の小学校で出会った子どもたち。

お弁当がない友達に自分の分を分け与えていた子ども。

ボランティアで配布したお菓子をその場で食べずに、家で待っている兄弟たちに持って帰る子ども。

 

 

僕がフィリピンの小学校に体験入学した後で、「おじさんは、お金がないから小学校に行けなかったんだね。私がお友達になってあげるよ。」と僕に言ってくれた子ども。

 

 

今、思い出してもジーンときます。

青木みたいに泣いたりはできないけれど・・・。

 

 

 

初めてのサーフィンをやり終えた後で、「自分は地球の一部だと感じた。」と興奮気味に言ったスタッフの言葉。

ステージでカラオケを熱唱した時の興奮と喜び。

 

 

 

などなど。

 

 

 

僕が1番欲しいことは、それなのです。

残念だけれど、日本に帰国してそれらを見つけることは僕にはできません。

 

 

 

だから、僕はこの国でこれから生きて生きたいのです。

 

 

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