私は東京大学大学院の時にひきこもってしまいました。
それから30年間近くひきこもってしまいました。
2013年に親戚の人がテレビの特集でこの団体を知り、支援の要請をしたのです。
それ以前にもいくつかの団体や個人に助けを求めています。
しかし、その人たちはいきなり私の家を訪ねてきて、腕ずくで私を外に出そうとした人たちでした。
ある時、知らない人たちが突然家に訪れてきました。
私は危険を感じて以前から考えていた場所に非難しました。
それは屋根伝いに逃げて隠れるということです。
今から思えば、よくそんなアクロバティックなことができたと驚きます。
それほど怖かったのでしょう。
捕まったら当然、まともな対応などしてはもらえないと思っていました。
「食事が欲しかったら、働け。」
「逃げ出したりしたら、監禁する。」
怖くて怖くて仕方がありませんでした。
憔悴しきってご飯も食べられなくなった私をみて、母が「もう家には誰も来させないから。安心しなさい。」と言ってくれた時にはほっとしたことを思い出します。
ですから、支援団体と聞いて良い印象など持てるはずもありませんでした。
この団体から送られてきたハガキも読まずにその場でゴミ箱に捨てていました。
まあこのくだりは何回も書いていますので、省略します。
2014年の2月に青木と会いました。
その時に、フィリピンに行くと言ってしまったのです。
怖くて仕方がないと思った一方、この男は信用できそうだ。
もしかしたら、30年間社会に出ていない私でも、変わることが出来るかもしれない。
いや、いや、そんな期待を持つのはよせ。
もう遠に50代になってしまっているのだ。
現実を直視しろ。
死ぬ前に最後に南国の綺麗な海を見るだけでも良しと思わなければ。
気持ちが葛藤していました。
そしてフィリピンへ。
「なんなんだ、この楽しさは。生きていてよかった。」
結果的にはそう感じたのです。
そして支援されてもらっている私が他の支援されている人たちに会ったのです。
その中でもヒロさんと大統領には、格別不思議な印象を持ちました。
特に、ヒロさんは、僕が日本語で話しかけたのに、全て英語とスペイン語そして中国語とビサヤ語も混じっていましたね。
「日本語以外に何か使える言語はありますか」と聞いてきました。
「日本語しか話せません。」と言いましたら、「東大を出ていらっしゃるのに、英語も話せないのですか。」とその時には、とても誇らしげな表情をしていたのを忘れません。
あとで、スタッフから「何日も前から、色々な言語で話しかける準備をしていた。」
そして、そのあとで「英語もろくに話せないなんて、東大なんて使い物にならんな。アハハハア」とほこらしげに笑っていたそうです。
今となっては笑い話ですが。
あれからもうすぐ7年目がきます。
2020年、私は60歳です。
そして、私にとって大きな節目になる年なのです。
続きは、また明日書きます。
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