17才 2年遅れの修学旅行をサポートセンターのスタッフとともに
少年Aのこと。
「日本でアルバイトをして金を稼ぎたい。」
フィリピンの大学を中退した少年Aは日本に帰国してもう一度やり直す決心をした。
少年Aという書き方はなじまんので、あいつとい言います。
日本に帰国して一ヶ月経って、警察に保護をされた。
「なんで?何があった!!」
報告をしてくれたフィリピンスタッフを問いつめた。
理由はわからないだった。
暴れる前日には、次の週からアルバイトの面接にチャレンジしようと話し合っていたし、大好きなカラオケにもスタッフと行って、気分転換してきたらしい。
笑顔も出ていて、来週からもう一度頑張ると話していたあいつだった。
「あいつに、けがはないの?」
フィリピンでは2年と6ヶ月過ごした。
俺とは6ヶ月。
1日寝ている以外は英語漬けの日々を過ごし、フィリピンの大学に進学。
俺の隣の部屋で一生懸命勉強に励んでいた。
日本ではいじめられたりうまくいかない事ばかりで、嫌な思い出しかないけれど、フィリピンの人は優しいからいいなと笑顔で話していたことが思い出される。
「英語」「フィリピンの大学」と言えばヒロ
そんな俺の立場が、あいつの出現で危うくなってきた。
あいつには絶対に負けたくない。
良い意味でライバルだったし、休みの日には2人で町に出かけて遊んだ。
突然、「大学の勉強はもういいや」と言い出し、次期の授業は受けない事を言い出した。
スタッフも本音が何かを聞き出そうと一生懸命だったが、最後までわからなかった。
フィリピンの大学を出れば、英語も読み書きができるし、そこに中国語でも読み書きできるようになれば、就職の選択は広がるんだ。
俺は、考えを変えるように何度も説得したがだめだった。
フィリピンで学校に行かないならば残され選択は就職だ。
就労練習をした。
信じられない話だが、サポートセンター名古屋はあいつのためだけに、ダバオで焼き鳥屋を開店させた。
ところが、マニラに戻らなければならなくなり、焼き鳥屋は開店即閉店。
雇用した従業員は法律にのっとり、給与数ヶ月分を支払い解雇。
サポートセンター名古屋は新たにマニラにて焼き鳥屋を開店する準備を始めたんだ。
ダバオからマニラに戻らなければならなくなったのも、あいつ自身のせいなんだ。
ところが、ダバオで解雇した従業員が退職金をもらいながらも、ごね始め、でっち上げの話を裁判所に持って行き、告訴したんだ。
フィリピンの裁判制度はめちゃくちゃいい加減でしかも進展がとてもとても遅い。
そのおかげで、マニラで新規に焼き鳥を作る事が、管轄している役所から許可が下りずになんと1年近くも裁判につき合わなければならなくなった。
裁判はもちろん、俺たちの勝利だった。
しかし、費やした時間は戻ってくる事もなく、1年間を無駄にしてしまった。
ダバオでお店を作り、閉鎖し、従業員を解雇。
裁判で訴えられたので、弁護士を雇った。
これだけで多くのお金が無駄につかわれてしまったんだ。
俺はスタッフでもないし、サポートセンター名古屋との関係はと言われるとはっきりしないが、そんな俺でも、大金を無駄にさせてしまった、あいつに対しては正直大きな怒りがあった。
マニラで就労練習に切り替えたあいつ。
同時に、ボクシングジムに通いたいとの事で、サポートセンターはお金を払い通わせた。
信じられない事だが、オーナーにとても気に入られ、就労ビザを申請するから、ジムで働いてくれとの打診がサポートセンター名古屋にあったんだ。
あいつは就労と平行しながら、空いている時間のすべてをボクシングジムで過ごした。
オーナーの誕生日に家族旅行に同行したし。
あいつの誕生日には店を借り切って、盛大にお祝いしてもらっていた。
マニラスタッフによれば、とにかくボクシングジムのスタッフと行動をともにし、楽しんでいたとの事なんだ。
ところが、それも4ヶ月目頃から突然行かなくなり、今度は音楽をやると言いはじめ、ボーカルレッスンとダンスをやり始めた。
アスペルガーのあいつにダンスができるはずもなく、中断。
フィリピンで現地採用で働いても、結婚もできないし、希望なんかないと言い出して、日本での就労を希望した。
一度短期間日本に帰国し、日本の空気に慣れさせた後完全に日本に戻したんだ。
俺はちょうどあいつが日本に帰国する直前、10日間あいつの部屋で一緒に過ごした。
あいつとはここフィリピンでこれから一緒にやっていくと思っていた仲間だったから。
あいつは日本で働いて頑張るんだと自分に言い聞かせていた。
気持ちは下がっていないし、フィリピンが嫌になって、帰国するんじゃないと言っていた。
俺としてはフィリピンを否定して日本に帰国する事は悲しかったから、少しほっとした。
あいつの、様子から、日本に帰国して働く事に俺も賛同したんだ。
「ヒロさん、俺にいろいろとよくしてくれたじゃないですか」
「とてもうれしかった。」
「今度日本であったら、俺におごらせてください」
「おれ、焼き肉腹一杯食べたい」
「一万ぐらいですみますか」
「高級店だから二万円!!」
「牛丼腹一杯で勘弁してください」
そんな話をした事を思い出す。
そんなあいつが暴れた。
今から考えたら、ものすごくやる気を出して頑張る、でもすぐに飽きてやめる
決して怠け者ではなく、それが持って生まれたあいつの性分なんだと思う。
青木さんたちは、動作はとても遅いけれど、決められた仕事を黙々とこなす事ができるので、簡単な仕事から徐々になれさせていく事を考えていると言っていた。
フィリピンではたくさんの人たちに朝から寝る前まで囲まれた生活をしていた。
それが日本に帰って、日本スタッフと通所時間だけ関わる事になって、寂しくなったんじゃないかとおれは思うんだ。
まあ、日本では24時間365日の支援はできないので仕方がないんだけれどね。
あいつの支援をしていた2人のスタッフがこの3ヶ月の間にやめてしまった。
あいつは日本に帰国する直前、泥棒に入られたんだ。
部屋にある金目のものはすべて取られた。
俺が貸していたゲーム機材も取られた。
命だけでも取られなくてよかったとみんなが思っていた。
取られた理由ははっきりとしている。
あいつは部屋の鍵をかけることができないんだ。
「どういう事なんだ?」
俺にもわからない。
スタッフが何度も指導したが、できなかったんだ。
で、24時間警備体制が整っているマンションで金目のもの一切がっさい取られたんだ。
警備員たちも泥棒が入ったという事にショックを受けていた。
支援している青少年の部屋に泥棒が入られた事はサポートセンター名古屋でも大問題になった。
当然、あいつを担当していたスタッフは責任を感じていた。
しばらくの間、仕事に来られなくなり、病院通いが始まり、精神的な病気になり退職となってしまったんだ。
とても優しくて、責任感の強く日本語も堪能な優秀なスタッフだった。
日本では男性スタッフが付きっきりだった。
寝たばこが発覚してから、時間を置いては、あいつの部屋を見回っていた。
やはり、鍵をかっていないということだった。
やがて、スタッフは眠る事ができなくなり、寝たばこがある限り責任が持てないという事で、担当を外してほしいと直訴したんだ。
しかし、スタッフの数が足りなくなっていたので、あと一ヶ月なんとか頑張ってほしいと言われたんだ。
しかし、寝たばこで何か取り返しのつかない事になるのではないかと思うと寝られなくなってしまった。
これ以上支援をすると自分がおかしくなってしまうと退職してしまったんだ。
青木さんの後を継ぐと思われていただけに、とても残念がられていた。
そして、あいつが暴力をふるってしまった。
幸い大事にはいたらなくて、良かったと思っている。
俺が自由に日本に帰られる立場だったら、今、すぐにでもあいつにあって、一言言いたいんだ
「大丈夫だ。」
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