支援に繋がらないことが、支援をしていく中でもっとも難しいことです。
メールをしたり、ハガキを送ったり最後には訪問をするのですが、なかなかご本人に会うことができません。
もちろんそんなことはわかっています。
私自身がそうでしたから。
親戚のものが、サポートセンターに支援を依頼してから、私が団体のスタッフと会えるまで、1年近くかかったのです。
どうして会おうとはしなかったのか?
1つには希望がなかったからです。
東大を卒業しても、30年近くひきこもっていた自分には、もう何も希望は残されていない。
私だけでなく、誰でもそう思いませんか?
サポートセンターは当事者のそのような心理は理解していて、希望を具体的にハガキに書いてくれていました。
2つ目は、プライドです。
結果として30年ひきこもっていましたが、それでも「自分は優秀な成績で東大を卒業した。」とプライドだけは持ち続けていました。
30年たってしまっていて、なんの価値ももうとっくになくなっていたのに。
私は、所属する団体の責任者たちと団体の名称変更で話し合っていました。
名前を変えたほうが良いと。
今の名前では、当事者は反発しますよ。
「俺は、こんな支援は必要ない。俺はひきこもりでもないし、障害者でもない。」と。
私のこの意見は上層部が理解してくれ、間も無く団体の名称が変わります。
名称だけではなく、組織が色々と大きく変わります。
小さな団体ですが、間も無くブロクでお伝えしますので、よろしくお願いします。
私がこの団体でお世話話になろうと決めた1番の理由はスタッフからの次の言葉でした。
「一緒に困っている青少年の支援をしてくれませんか。その為に、フィリピンでの支援を体験してもらうことが必要なのです。」
30年間ひきこもっていました。
生産的なことは何もしていませんでした。
毎日考えていたこと。
「どうしてこうなってしまったのか。あの時こうしておけば良かったのに。」
「このままなんの意味もない人生を送るくらいなら、いっそ自分で命をたったほうが良いのでは。」
私は、自分でわかっていました。
日本社会の不良品、お荷物。
税金の無駄遣い。
そんな私に、スタッフが「一緒に支援をしてくれませんか。」と言ったのです。
驚いてしまいました。
とても嬉しかったのです。
自分はまだそんなふうに思われているのかと。
私の頑ななプライドはいとも簡単に崩れ落ちました。
しかし!!
訪問してくれたスタッフの顔をもう一度見直して、考えを改めました。
こう想像したのです。
「30年ひきこもった人間が社会復帰なんてできるはずがない。私は、不良品。アジアの裏シンジケートに引き渡されて、臓器を取られた後は、海に沈められるのだ。」
訪問してくれたスタッフの青木がどれだけ笑っても、暴力団のメンバーと疑っていた私です。
読者のあなた、今笑っていますね。
笑い事ではありません。
ひきこもっていたり、不登校の人たちには、イメージに気をつけて、アプローチをしないといけないのです。
支援に繋がってもらう為に、小さな私たちの団体は大きく変わります。
全ては当事者の回復のために。
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