発達障害な僕たちから2

発達障害と診断され、2次障害でひきこもった東大、青木、シンゴと50代男Aとスタッフ吉村が社会復帰目指す日常を綴りながら支援についても書いていきます。

30年間誰とも話すことがなかった私。A

f:id:smilehousejapan:20170202142956j:plain

吉村さんと大野さんと私とで話し合いです。


 

たくさんの人から励ましのメールをいただきました。

ありがとうございました。

世の中には、こんな私でもバカにしたりせずに、「頑張りなさい。」と励ましてくださる方がいるのだと知り、驚きと喜びでいっぱいでした。

 

 

こんなんだったら、もっと早くにやり直す決断をしておけばよかったと後悔しています。

まあ、後悔しても私の回復には何もプラスにはなりませんので、ほどほどにして前を向いて行きます。

 

 

さて今の私はとても大変な状況です。

このブログを読んでくださる皆様は、どの程度大変なのかということはわからないでしょう。

 

 

青木さんが言うのには、30年間の支援生活でもっとも大変な状況に置かれているのが私だそうです。

 

 

 

私は、ヒロさんを知っています。

ヒロさんは私のお世話をしてくれていましたから。

そして、私はヒロさんがどれだけ大変だったのかも間近で見ていて知っています。

 

 

「あのヒロさんよりも大変ですか?」と青木さんに聞きましたら「あなたの方が大変だ。」と言われましたので、とてもがっかりしました。

 

 

「私も10年近くの支援が必要ですか?」と聞きましたら「10年後、あなたは生きていないかもしれないから、回復にそんなに時間をかけられない。3年以内で社会復帰しないといけない。」と言われましたので、ちょっとホッとしました。

 

 

私の大変な状況をこれから順番に説明していきます。

 

 

まずは、会話ができないということです。

30年間、誰とも話をしていません。

 

 

「そんなバカな!!家族がいたでしょ。」と言いたい方もいらっしゃると思います。

家族がいても、会話がない家族もいるのです。

「ご飯だ。」

「風呂沸いた。」

お母さんが、私に話しかけるのは基本この2つの台詞だけです。

 

 

その台詞に対して、「おお」とだけ返事をしていた私です。

ひきこもってからは、「おお」とも言わなくなりました。

それで、母親も声をかけなくなりました。

 

 

そんな生活で30年近く経っていました。

30年ぶりに人と話したのは、訪問してくれた青木さんでした。

 

 

玄関先で、私に話しかけてくれた青木さんに、私は変な日本語で応答したのを覚えています。

 

 

 

「ようこそいらっしゃられました。」

 

30年ぶりに人間と話した私は、手が震えていました。

 

 

 

 

下記バーナーのクリックを押してください。

ご協力をお願いします。

 日本ブログ村に参加しています。

 

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 発達障害へ
にほんブログ村

 

 

いつもご協力をありがとうございます。

   1位でいると新しい人たちが訪問してくれます。