2011年父親がフィリピンまで会いに来てくれた。
15歳の時に診断されたんだ。
なかなか支援先がなくて、父親は待てなくて、あちら此方に自分で出かけて支援先を探してきた。
お寺さんでは朝の修行が大変で、朝の修行前に寺を逃げ出した。
テレビを見てはいけないというのがとても我慢できなかった。
ドラゴンボールの再放送が俺の生きる糧だったからな。
服装は寺の服のままで逃走したので、直ぐに変質者ということで、誰かが通報してあえなく警察に捕まった。
とても優しいんだよ。優しすぎるくらい。
だからきみが悪かったな。
そしてやったことがつまらなくて嫌になった。
囲碁、将棋、みんなで歌おう、クッキー作り、
フリースクールはクッキー作りがお好き?
ああああああ、思い出しただけで、イライラするな、未だに。
自分たちの価値観を押し付けるんじゃないよ。
何も分かっちゃあいないんだ。
「私たちはあなたたちの味方だよ。」
「学校に行かなくて正解。」
「ここがあなたたちの居場所。」
あああああああああ、もう。
俺は学校に行かなかったけれど、学校が嫌で行かなかったんじゃないんだ。
行きたてくても、いじめられるし、勉強はわからんし、集団行動ではいつも注意を受けていた。
俺は学校が怖かったんだ。
それなのに自分の考えで、みんなもそうだと思うんじゃあねえよNPOの理事長さんよ。
まあ過ぎ去ったことだから、もういいんだけれどね。
そんなこんなで大変だった。
でもおいらの家族は俺以上に大変だったんだ。
おいらに振り回された人生だ。
17の時かな、母親をひどく傷つけてしまい、入院させてしまった。
後で母親は命を取り留めたということは青木さんから聞いた。
それ以来、母親とは会ってはいない。
父親は7年前にフィリピンまで会いに来てくれたんだ。
父親はフィリピンに仕事の関係で寄る予定があったから。
ピザハットで午後の2時から30分だけ会った。
父親は言葉少なだったけれど、「自分の人生を支援者さんたちと切り開いていって欲しい。」と言った。
俺は、「いままで本当にごめんなさい。ゆるしてください。」と言いたかったけれど、言えなかった。
「本当に頑張って、勉強しているんだね。サポートセンターさんからの手紙を読んだんだ。お前が変わったということを聞いて、俺は信じられなかった。でも、今、お前を見てわかったよ。」
残り五分になって、店の外に出たら突然話し出した父親。
「日本に帰ってきても嫌な思い出しかないし、周りも変な目でお前を見るから。そして母親はやはりお前とは住めないと言っている。ここで頑張るしかいんだ。」
そう言うと、俺をしっかりと抱きしめてくれた。
「お前のことを思わなかった日は1日もない。お前は私の大切な子どもだ。」
父は泣いていた。
ハゲも泣いていた。
フィリピン人スタッフたちも泣いていた。
俺は食べかけのピザが後片付けされないか心配で仕方がなかった。
「ちよっとピザをテイクアウトしてくる。」
そう言って店内に走った。
本当は涙を見られるのが恥ずかしかったから。
7年目の真実。
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