発達障害な僕たちから2

発達障害と診断され、2次障害でひきこもった東大、青木、シンゴと50代男Aとスタッフ吉村が社会復帰目指す日常を綴りながら支援についても書いていきます。

4年間ありがとうございました。さようならゴリ男。ヒロ

 

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発達障害が問題じゃないんだ。

発達障害の二次障害で不登校、ひきこもり、家庭内暴力自傷行為、反社会的行為なとがあると問題なのです。

 

 

僕は学校の勉強がわからなかった。

二桁の足し算、引き算が17歳までちゃんとできなかった。

 

 

日本語の敬語もうまく話せなくて、度々周りとトラブルを起こした。

 

 

身なりもちゃんとしていなかったから、学校ではみんなから距離を置かれた。

 

 

集団行動が苦手だったり、運動神経が鈍かったので、運動会や防災日には必ず、全校生徒の前で注意を受けました。

 

 

学校は好きだったけれど、もう怖くて通うことができなかった。

 

 

学校に行かなくて、家にいたら母親が、勉強しろと口うるさく言ってきた。

 

 

僕は勉強の仕方がわからなくて、勉強をしなくなったのに、なまけものだと思われた。

 

指に輪ゴムで鉛筆をくくりつけられたのはとても痛かった。

「お母さん、痛いよ。痛いって。」あまりの痛さに泣いたことを思い出す。

 

 

冬の寒い夜にパンツ一枚でベランダに立たされた。

「真面目に学校に行きますと言うまで中には入れない。」僕が泣きながら「真面目になります。」と言っても母親は部屋の中には入れてくれなかった。

 

 

中学卒業後はいろいろなところでお世話になった。

昨日そのことを書きました。

 

 

最後には、サポートセンター名古屋に流れ着いた。

でもそこでもやることなすこと、失敗ばかり。

もう疲れ果ててしまった。

 

 

そして、投身自殺を図った。

近くの釣り人に命を助けてもらった。

それから僕はフィリピンに流刑になった。

 

そこで、たくさんのフィリピン人スタッフと一人の日本人スタッフが俺のためについてくれた。

 

 

その日本人がゴリ男だ。

ゴリラに似ているからゴリ男。

俺の父親であり兄であった男。

 

彼がいてくれたからこそ、俺は今ちっとはましになった。

彼がいてくれたから、彼女ができた。

彼がいてくれたから大学を卒業できた。

 

 

先日の日曜日、朝食後。

「2時間後の便で日本に帰る。」と言った。

「ハゲに言われたの?卒業式には間に合いますか?」

 

 

「ごめんね、卒業式には出たいけれど、出られないんだ。」

「ええええ、どういうこと」

「明日日本に帰った後、田舎に帰って父親の後を継ぐことにしている。」

 

 

「ちよっと、どういうこと?この仕事やめてしまうの」

「何も聞いていないよ。僕が何か悪いことしたの?」

 

 

「いいや、父親が病気なので、僕があとを継ぐんだ。」

「いつそれは決まったの。」

 

 

「半年前だけれど、内緒にしていてごめんね。ヒロさんが不安になるといけないと思って言わなかったんだ。」

タクシー運転手が寮に顔を出した。

 

 

ゴリ男はスーツケースを手にして、寮の外に出た。

僕は何がなんだかわからないまま頭が混乱していた。

とにかく何か言わなくちゃ。

 

 

「言わせてください。5年間俺を毎日支えてくださって、本当にありがとうございました。」

「あなたがいてくれて、僕は今幸せです。」

そう言うのが精一杯だった。

 

 

「ヒロさんは頑張りました。私はあなたの頑張りに頭が下がります。」

「日本でまたお会いする日を楽しみにしています。」

 

 

ゴリ男はタクシーの車内で顔を伏せながそう言った。

 

ゴリ男を乗せたタクシーが小さくなるまで、僕は見続けた。

 

 

また会う日まで。

さようなら。

そしてありがとうごさいました。

 

 

 

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父との再開、7年目の真実 ヒロ

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      2011年父親がフィリピンまで会いに来てくれた。

 

 

俺はアスペルガーADHDと診断されている男。

15歳の時に診断されたんだ。

児童相談所につねづね父親は相談に行っていた。

 

 

なかなか支援先がなくて、父親は待てなくて、あちら此方に自分で出かけて支援先を探してきた。

 

 

お寺さんでは朝の修行が大変で、朝の修行前に寺を逃げ出した。

テレビを見てはいけないというのがとても我慢できなかった。

 

 

ドラゴンボールの再放送が俺の生きる糧だったからな。

服装は寺の服のままで逃走したので、直ぐに変質者ということで、誰かが通報してあえなく警察に捕まった。

 

 

NPO法人フリースクールみたいなところにも行ったな。

とても優しいんだよ。優しすぎるくらい。

だからきみが悪かったな。

 

 

そしてやったことがつまらなくて嫌になった。

囲碁、将棋、みんなで歌おう、クッキー作り、

フリースクールはクッキー作りがお好き?

 

 

ああああああ、思い出しただけで、イライラするな、未だに。

自分たちの価値観を押し付けるんじゃないよ。

何も分かっちゃあいないんだ。

 

 

「私たちはあなたたちの味方だよ。」

「学校に行かなくて正解。」

「ここがあなたたちの居場所。」

 

 

あああああああああ、もう。

俺は学校に行かなかったけれど、学校が嫌で行かなかったんじゃないんだ。

 

 

行きたてくても、いじめられるし、勉強はわからんし、集団行動ではいつも注意を受けていた。

 

 

俺は学校が怖かったんだ。

それなのに自分の考えで、みんなもそうだと思うんじゃあねえよNPOの理事長さんよ。

 

 

まあ過ぎ去ったことだから、もういいんだけれどね。

そんなこんなで大変だった。

でもおいらの家族は俺以上に大変だったんだ。

 

 

おいらに振り回された人生だ。

17の時かな、母親をひどく傷つけてしまい、入院させてしまった。

 

 

後で母親は命を取り留めたということは青木さんから聞いた。

それ以来、母親とは会ってはいない。

 

 

父親は7年前にフィリピンまで会いに来てくれたんだ。

父親はフィリピンに仕事の関係で寄る予定があったから。

ピザハットで午後の2時から30分だけ会った。

 

 

父親は言葉少なだったけれど、「自分の人生を支援者さんたちと切り開いていって欲しい。」と言った。

 

 

俺は、「いままで本当にごめんなさい。ゆるしてください。」と言いたかったけれど、言えなかった。

 

 

「本当に頑張って、勉強しているんだね。サポートセンターさんからの手紙を読んだんだ。お前が変わったということを聞いて、俺は信じられなかった。でも、今、お前を見てわかったよ。」

 

 

残り五分になって、店の外に出たら突然話し出した父親

 

 

「日本に帰ってきても嫌な思い出しかないし、周りも変な目でお前を見るから。そして母親はやはりお前とは住めないと言っている。ここで頑張るしかいんだ。」

そう言うと、俺をしっかりと抱きしめてくれた。

 

 

「お前のことを思わなかった日は1日もない。お前は私の大切な子どもだ。」

 

 

父は泣いていた。

ハゲも泣いていた。

フィリピン人スタッフたちも泣いていた。

 

 

俺は食べかけのピザが後片付けされないか心配で仕方がなかった。

「ちよっとピザをテイクアウトしてくる。」

そう言って店内に走った。

 

 

 

本当は涙を見られるのが恥ずかしかったから。

7年目の真実。

 

 

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特別支援教育ネットでの発表会があります。 ヒロ

 

www.youtube.com

 

 

やすさん、風邪をひいて寝込んでるそうです。

僕がピンチヒッターで本日は書かさせていただきます。

 

 

やすさんのブログ、大変素晴らしいと思います。

 

 

アスペルガーと診断を受けているそうですが、やっぱり色々と大変な状況がブログを読んでいて手に取るようにわかります。

 

 

最初にフィリピンで一年間支援を受けて、それで一旦日本に帰ってまたフィリピンに来てという繰り返しの中で、まあ状態は良くなられたということらしいです。

僕は知らないんです、この人のこと。

 

 

支援を受けている人同志、他の人たちの存在を知らないようにしているのですよ。

 

 

でないと嫉妬や、他者と比較したりして支援を受けるどころじゃないわけです。

 

 

やすさん、また体調が回復しましたら、僕に言ってください、ブログの順番をお渡ししますから。

 

 

さて、僕はこの3月31日に大学の卒業式があります。

4月1日からはサポートセンターの職員となります。

どうぞ宜しくお願いします。

 

 

期間は3年間です。

3年後には一般企業に就職する目標を持っています。

 

 

4月からは講演会や勉強会のために日本に帰ります。

いろいろな団体さんが呼んでくれて、僕に話す機会を与えてくれています。

 

 

ぼくはアスペルガーと診断されて、小、中と不登校

 

 

義務教育終了後は自宅にひきこもり、家庭内暴力で家族を傷つけました。

 

 

また、ストーカー行為や、その他の行為で警察に捕まり、一時は少年院送致にもなりかけました。

 

 

そんな僕が変わったのです。

できないことはまだまだたくさんあります。

コミニュケーションもところどころおかしくなって周りから変に見られる僕です。

 

 

でも絶え間ない練習の成果でできることも増えてきたんです。

 

 

僕の状況はかなり悪かったということです。

いろいろな支援団体や精神科のお医者さんにもお願いしたのですが、匙を投げられてしまいました。

 

 

しかし、僕に合わせた環境をつくり、その中でゆっくりと僕の気持ちを下げずに支援を続けてくれたので、僕は高校も卒業できたし、考えてもいなかった大学も卒業することができるまでになりました。

 

 

人は変われる。

僕のような状況でも変われたんだから、おかあさん、あなたのお子さんも変わることができるのです。

 

 

どうか、諦めないでください。

親御さんが諦めたら、お終いなのですから。

 

 

僕と一緒にお子さんの問題を考えていきませんか。

最後に言わせてください。

 

 

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ありがとうございました。

 

 

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新しい環境フィリピンで新しい人となる。やす

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      この映画を見ることが僕の最初の宿題でした。

 

 

フィリピンに行く前に青木さんから何度も言われたこと。

 

 

「今までのやり方が間違っていた。やり方を知らないから、いつも失敗をしてきた。」

 

 

「僕たちがうまくいくやり方を教えるから、信じてその通りにやってほしい。」

 

 

「君が今しなければならないことは僕たちを信じて、僕たちの言う通りにやり続けることです。」

 

 

僕は青木さんに聞きました。

「僕に拒否権はないのですか?」

「なんだか、僕は青木さんの操り人形みたいで嫌です。」

 

 

そう思っていたのですが、なんだか気づいたら青木さんに説得されていた僕がいる。

 

 

フィリピンパブというお店があって綺麗な女性がたくさんいると調べてわかりました。

 

 

それで青木さんに「フィリピンパブに行って事前に色々とリサーチしたいのですが?」

と聞きました。

 

 

「行くな。」との青木さんからの返事でした。

行きたいという気持ちが強かった僕です。

 

 

内緒で行こうかと思いましたが、毎日のように国際電話でフィリピンから青木さんが僕の携帯にかけてきたので、諦めました。

この時にすでに青木さんの魔法にかけられていた僕です。

 

 

フィリピンに行く機内で隣にフィリピン人の女性がいたので、テンション上がりまくりました。

とても綺麗な女性でした。

 

 

僕が早速覚えたタガログ語で話しかけたら、日本語で「あなたフィリピン人ですか」と聞かれました。

とても嬉しかったです。

 

 

それからフィリピンに着くまで、ずーっと話しかけ続けました。

 

 

その人はフィリピンパブで働いている人で、里帰りだと言ってました。

 

 

フィリピンについてから、最初に青木さんが言ったことは「積極的に話しかけることはとても良いこと。でも相手の顔を見て、嫌そうな顔をしたら、話し続けることはやめなさい。」です。

 

 

「嫌な顔ってどんな顔ですか。」と僕が聞きました。

青木さんは変顔をしました。

 

 

「それは嫌な顔ではなくて、変な顔です。」と僕は青木さんに言いました。

 

 

「そうか、これは変な顔なのか?」と青木さんは笑いました。

僕も笑いました。

 

 

僕は思い出し笑いを続けていたので、青木さんは手を叩いて「笑うのはもうおしまいです。」と言いました。

やはり僕の操り人形化は着々と進んでいるようでした。

 

 

空港に着くとめちゃくちゃ綺麗な女性が僕を迎えに来てくれていました。

僕は驚いてしまい、フリーズしてしまいました。

 

 

動けなくなってしまうのです。

時々あります。

 

 

青木さんは事前に母親から僕に関してのことを徹底的に調べあげていたんだと思います。

フリーズする横で、水を飲んで佇んでいました。

 

 

僕のフリーズが溶け始めた頃、「WELCOME TO PH」と言って笑いました。

僕も少しだけ笑いました。

 

 

僕は新しい世界に来たのです。

もう警察のお世話になるのは嫌です。

新しい人に僕はなりたいと心の底から思いました。

 

 

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フィリピンで再起を図る僕 やす

 

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母親と話し合った。

 

 

母親は「やはり日本国内にいてはダメだ。将来が台無しになる。」と言った。

 

 

「沖縄とか北海道ではだめか。」と聞いたが、「国外に行くしかない。」と言われた。

 

 

「じゃあ、どこに行くんだ。」と聞いたら「アフリカに一緒に行こう。」と言われた。

 

 

警察官からは「地元にいると色々と問題を起こしてしまうので違う場所に移ることを母親と話してみてはどうか。そうしないと君の将来に傷がついてしまう。」と言った。

 

 

僕の頭は混乱していた。

何も考えられなくなっていた。

むしゃくしゃしたので、外に出た。

 

 

「どこに行くの?」と母親が僕に声をかけた。

母親は走って僕の後をついてきた。

 

 

「お願いだからもう他の人に迷惑をかけることはしないで。お願いだから。」と泣きながらすがるように僕に話しかけた。

 

 

僕も泣いた。

しゃがんで泣いた。

そして僕はその時決心した。

 

 

日本から出ることを決心しました。

母親とアフリカに行くことを決心しました。

 

 

決心してアフリカでボランティアをしている人とお会いしました。

そして色々とお話を聞きました。

とても優しく色々とお話ししてくれました。

 

 

でも僕にはとても難しい。

アフリカで生活していくことはできないと感じました。

 

 

そんな時に、青木さんのことを思い出しました。

青木さんと、母親と僕の3人で会って色々と話し合いました。

 

 

母親には席をはずしてもらって、青木さんと二人で色々と僕の悩みを話しました。

その時に話してくれたことで覚えているのは2つです。

 

 

1、「何が良くて何が悪いのかを毎日の暮らしの中で身につけていかなければならない。5年ぐらいはかかる。」

2、「女性との付き合い方を学ぶ。」

 

 

そしてもっとも僕が関心を寄せたことは、菜々緒似の女性がフィリピンにはいるということです。

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          ヒロさんで言えば18号です。

 

最近の国際美人コンテストでも2回も優勝するくらい綺麗な人がフィリピンには多いのです。

 

 

それを聞いて、僕はフィリピンに行くことを決めました。

 

 

行くまでの間、朝から晩まで一日中タガログ語を必死になって話す練習をしました。

 

 

近くの教会にフィリピン人の人たちがミサで集まっていると聞き、僕も教会のミサに行って、話し相手になってくれるように頼みました。

 

毎日、フィリピン人の人たちと話す練習をお金を出してすることにしました。

 

 

3人のフィリピン人の女性と朝から晩まで一日中話すスケジュールを無理を言って組んでもらいました。

 

 

それとフィリピンの地図を青木さんからもらって暇があったら見続けて、頭に焼き付けました。

 

 

僕がフィリピンに行くまでに一ヶ月近くかかりました。

後になってわかったんですが、青木さんたちが僕のために環境を整えてくれていたんです。

 

 

そして僕の再起への道がこれから始まります。

 

 

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日本にはおれなくなって僕は再び海外へ行かされた やす

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もう直ぐ20歳になろうとしていた。

 

 

母親が言った。

「教師をやめるから一緒にアフリカに移り住もう。アフリカで井戸を掘ったりするボランティアの人たちを紹介してもらったから、そこでお世話になろう。」

 

 

「ボランティアは年寄りがやるもので、僕みたいな若い人はやらないんだ。それとアフリカに行くといろいろな病気が蔓延しているから非常に危険だ。そんなところに行くべきではない。」と言った。

 

 

「それと僕は高校もちゃんと終了していないので、もう一度高校からやり直すつもりだ。(高卒認定試験は合格していましたが、ちゃんと3年間毎日学校に通学しないと、高卒とは認めたくないとその当時はそう自分で思っていました。)」

 

 

大きな声で母親に向かって怒鳴るように話したのでそれから母親は何も言わなくなりました。

 

 

家には青木さんが1ヶ月に数回来ては、僕と話して帰りました。

 

 

青木さんは、僕を日本から海外にだそうと企んでいたので、話は適当に合わせておきました。

 

 

それとカウンセリングや精神科にも通い続けました。

そうしたら母親もあまり何も言わないから。

 

 

「20歳になると、警察に捕まると、牢屋に入るよ。刑務所には危ない人たちがたくさんいて、生きた心地がしないそうだよ。」とこの時、母親は同じ話を何度もしていました。

 

 

そんな時にまた僕は事件を起こしてしまいます。

いつも行くコンビニは彼女の家の近くにあります。

その時には、菜々緒似の彼女への未練はなくなっていました。

 

 

そのコンビニで店長からこう言われました。

「お前、少しは真人間になったのか?」

僕はその人が話している意味がわからなかったので無視をして雑誌を立ち読みしていました。

 

 

そして、菓子パンとジュースを買ってレジに行ったら、こう言われました。

「犯罪を犯す人間にはこの店に来てほしくない。」

「お前が来ると他のお客さんの迷惑になるんだ。」

 

 

店長はそう言って僕がレジに出したパンとジュースを取りあげて、後ろの机におきました。

(僕はこのコンビニで2回警察に捕まっています。)

 

 

「もう来ないでくれ。」

その時の記憶は飛んでいて、よく覚えていないけれど、警察署で何度も確認されたので多分そう言ったんだと思います。

 

 

「殺すぞ。」

そして僕は拳を振り上げて、レジのカウンターを思いっきり叩いた。

「ぶっ殺してやる、お前たち。」

 

 

そして店長は直ぐに警察署に電話しました。

僕はその店を出て自宅に帰りました。

そうしたら自宅にパトカーが来て、僕は警察署に連れて行かれました。

 

 

母親も勤務先の学校を早退して、警察署に来ました。

この時はまた後日警察署に行きました。

今までとは違う雰囲気だったように思います。

 

 

自宅に帰宅して、僕は2階の自分の部屋に戻りました。

 

 

階下から、母親の声がしました。

母親は叫んでいました。

母親は何かを壊していました。

 

 

僕は怖くなったので部屋の鍵をかけて、ヘッドホンをして大きなボリュームで音楽を聞きました。

 

 

いつの間にか、僕は寝ていて、起きたら、母親が心配になり、階下に下りて行きました。

大変なことになっていました。

何もかもが壊されていました。

 

 

テレビでみた家庭内暴力の子どもの部屋みたいに破壊されまくっていました。

母親は着替えもせずに、居間で寝ていました。

 

 

僕はこの家を出ようと思いました。

 

 

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夜の新宿は僕には最高の場所だった やす

 

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「君がしていることは悪いことだから、今すぐにやめないといけない。」

青木さんは家に来るたびに必ずその言葉を言って帰っていきます。

 

 

「女性につきまとったりすることをやめないと知らない人たちから攻撃を加えられるようになる。」

 

 

例えば家に石を投げられたり、街を歩いていたら唾を吐かれたりするようになる。

「それでいいですか?」と青木さんは僕に聞きました。

 

 

「嫌に決まっている。でも自分ではやめられない。」

「だから僕たちと一緒に暮らして、毎日いろいろ楽しいことをしながら、行動を変えられるように僕たちが教えてあげるから。」と青木さんは言った。

 

 

でも、「日本国内じゃなくて海外で」と言われたんで、お断りしました。

日本がいいに決まっていると思っていましたから。

 

 

その間に、カウンセリングを二ヶ所と精神科に一ヶ所とNPOに二ヶ所母親と一緒に行きました。

思うんですけれど、カウンセリングは僕には効果はなかったです。

 

 

少しは期待したけれど。

青木さんから「他の誰かが悪いとか良くないとか嫌いだ。ということは言わない、書かない。」と言われていますので、ここらへんにしておきます。

 

 

でもお母さんたちは気をつけた方がいいですね。

あちらこちらといろんなところに連れて回されると本人は余計混乱するだけです。

 

 

病院から自宅に帰る間に、話したいことが思い浮かんだり、夜静かにしていて、こんな気持ちなんだけれど、どう思うのかということがよくあったけれど、そんな時に僕の話を聞いてくれる人なんてこの世の中にはいないな。

 

 

でも母親はここにいてはダメだと何度も何度も言うので、僕は前から考えていた計画を実行した。

 

 

東京の新宿に独り住いすること。

そして風俗の店で店員になること。

 

 

青木さんは「一人暮らしをすると、ゴミ出しとか食事とか、自分で考えないといけないし、気付いたら今日1日誰とも話していなかったということにもなるから、一人暮らしははっきりダメだ。」と言いました。

 

 

でも母親はここから出てくれるんならそれは良いことだということで、僕は新宿近くのマンションに住むことになりました。

 

 

新宿は最高でした。

特に夜になると、大勢のきれいな女性が街を歩きます。

見たこともないほど綺麗な女性たちに僕はすごく興奮しました。

 

道で見つけた女性の後をつけたりはしなくなった。

また、女性の腕を掴んで、振り向かせることもしなくなった。

 

 

でもいいなと思った女性の写真を撮り続けたいと思った。

たくさんの女性の写真をアルバムにして見続けたいと考えました。

 

 

それでカメラを手にして、夜の新宿で歩いている出勤前の綺麗な女性を勝手に取っていたら、チンピラの人にいちゃもんをつけられて、金を取られた。

 

違う場所でやってもどこにでもチンピラの人たちがいて、その度に殴られたりお金を取られたりした。

 

 

でも僕の要求の方が怖さより強かったので、写真を撮ることをやめなかった。

 

 

3ヶ月ぐらいたってから、僕のマンションの郵便受けに「殺すぞ。」とマジックで書かれた紙と、僕が新宿で写真を撮っている姿の写真が入れてあったので、怖くなりました。

母親に事情を話して、自宅に帰ることにした。

 

 

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