発達障害な僕たちから2

発達障害と診断され、2次障害でひきこもった東大、青木、シンゴと50代男Aとスタッフ吉村が社会復帰目指す日常を綴りながら支援についても書いていきます。

家庭内暴力の俺と父の思い ヒロ

 

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   もう一度学校に戻って勉強することに決めました 

 

 

 

俺の父親

父親の存在があってこそ、俺は今生かされていると思う。

父親の理解が俺を回復へと導いた。

 

 

それはほんとうのこと。

 

 

もちろん家族と俺が同居していた時は父とはうまくいかなかった。

その理由。

 

1、母親の状態が手をつけられないほど悪すぎたこと。

2、誰もが知る会社での出世競争に邁進していて会社人間だったこと。

3、子どもたちが全員何がしかの問題を抱えていたこと。

 

 

こんな状況なら普通は、酒に手を出すとかよそで癒されたくて、愛人をつくるとかそんな状況になる場合も多いでしょ。

しかし、必死に父親は耐えたんだ。

 

 

現実から逃げずに目の前の問題にま向かって行った。

程度の悪いアスペルガーな俺をなんとか真人間にしようと。

しかし接し方がうまくいかなかったので成果は出なかった。

 

 

3つのことをバランスよく対処していこうと考えたんだと思うよ。

でも3つのこと、どれ1つ取っても大変だったろうな。

俺がまともな子どもだったら父親はもっと上のボジションに立てた人間だと思う。

 

 

 

俺に費やした情熱、母親にかけた愛情。

どれも半端ないほどのことだったに違いない。

 

 

しかし、それでも俺は悪くなる一方だった。

俺が悪くなると同時に母親の精神状況は危機的な状態に陥って行った。

そして大事件が起きたんだ。

 

 

もう少しで母親は命を落とすところだった。

凶暴なバカ息子に殺されるところだった。

 

 

父親は一生懸命だった。

「何がいけないんだ。」

「どうしたいんだ。」

「なぜ暴れるんだ。」

 

 

はあー。

きっと父と息子とのおんなじ光景が今も日本全国繰り広げられているんだろうな。

 

 

僕が「フィリピンに行く。それも5年とか長期で」と父親に青木さんが提案した時、父親はソファーにぐったりともたれたと青木さんに聞いた。

 

 

自分の人生で大変なことの1つが確実に自分の手から離れた。

後の2つの問題に集中して当たれる。

そう思ったんだろうな。

 

 

今、他の家族はそれなりに安定して楽しくやっていると青木さんから聞いた。

それでいいんだ。

それがいい。

 

 

父親と青木さんは俺の将来の方向性をマメに連絡をし、話し合っていた。

 

 

俺が朝から夜まで1日12時間英語漬けの日々を送ると聞いた時も、インターナショナルハイスクールに通学したいと言っていると聞いた時も、まさかそれをやり通すとは思わなかったらしい。

 

 

高校の卒業証書を父親と母親に見せたかった。

俺はもう昔の俺ではないんだと言うことを知ってほしくて。

もう一度、リスタートを切りたくて。

 

 

しかし、父親も母親も俺に会ってはくれなかった。

その時、俺が家族にしたことがどれほど大変だったのかがわかった。

 

 

程度の悪いアスペルガーな俺はたくさんの人たちの応援と励ましを得て、今春めでたく大学を卒業した。

その吉報は海を隔てた日本の父親にも青木さんを通してもたらされた。

 

 

父は言ったそうだ。

「息子にはメンターが必要だったんですね。」

「メンターが必要だったんだ。」

 

 

「僕はそのメンターにはなれなかった。」

「申し訳ないことを息子にした。」って。

 

 

「おやじ、謝る必要はない!!」

「謝るべきなのはこの俺なんだからな。」

「感謝」の一言。

 

 

ありがとうございました。

 

 

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