学級委員にならさせてもらい、小さな自信が積み重なっていった。
生徒会長にはなれなかったが、生徒会の役員として、他の先生方との交渉ごとや、違う学年の生徒達をまとめたりと、様々な経験をさせてもらった。
ひとつひとつ丁寧に先生方に教えていただいた。
私にはこの経験があるので、学校批判はしないのだと思う。
勉強が楽しい。
早くテストが来ないかなって思っていた。
放課の時間、友達とじゃれ合ったり、騒いだりすることなんて、この僕ができるなんて思いもしなかった。
学校生活が楽しいと、心底思えるようになったのだ。
僕はひどいアレルギー体質で、全身の皮膚の色が変色したり、かゆくて掻くものだから、所々皮膚が化膿していたりした。
6年に上がる頃には、アレルギー体質が変わっていた。
どんなものを食べても大丈夫になったのだ。
クラスのすべての女子から年賀状が来た!!
低学年のときもクラスの人から年賀状をもらった。
そこには「お前の事が嫌いだ。死ね!!」と書いてあったり
なんでも古代ヨーロッパに広まっていた呪いの言葉が書かれていたりした。
年賀状の横に説明書きがしてあったから、わかった。
6年時の僕の誕生日には下駄箱にラブレターが何通も入っていたり、同級生のお母さんが僕の家にきて、「娘があなたの事が好きで眠れないから、友達になってほしいと言っている」と言われたりした事も思いだした。
こんな経験も僕に取っては大きな自信につながった。
もちろん、変わらないことも多くあった。
陸上、水泳、柔道等は市内でも優勝するくらいの成績を残したが、バスケットやハンドボール、体操などは全くといっていいほどできない。
いや、もし川島先生が僕にあわせた教え方をしていてくれたら・・・
華麗にボールをさばく自分を想像してみたりもした。
絵を書く事も全くできない。
特に人物画は幼稚園児のレベルだ。
写生にしても遠近感とかが全くわからない。
リズムを刻む事も苦手だ。
「♩に合わせて手を叩く」そんな試験がでたが確か〇点だった。
しかし、得意な楽器を発表するという試験のときにはマンドリンを弾いた。
自宅の倉庫からマンドリンを発見して、それを触っていたら楽しくなって、ひと夏の期間朝から晩まで練習したら、とてもうまくなった。
それを音楽のテストで披露したら、音楽の教師から「何年習っている」と聞かれたので、「この夏休みだけの練習です」と答えたら、「嘘をつくのはやめなさい。減点だと言われた」
できない事があっても、他にできる事があれば、皆の輪の中にいる事ができる。
自分の興味ある事を自分のペースでやる事ができたら、僕は人並みにできるんだ。
決して卑下したりすることなんかないんだ!!
「僕は生きていていいんだ」そう思えるようになった事がとてもうれしかった。
そのように変えてくれたのが、川島先生と野村先生だった。
今から四十年前に発達障害なんて言葉は存在していなかった。
しかし、現場の教師達は、何か特別な子ども達がクラスの何割かに見られるという事は感じていたに違いない。
そして、今のような特別支援教育がなかった時代にでも現場の経験豊富な教師達は、対処法を理解していたのだ。
僕は、自分が川島先生、野村先生から教えていただいたこと、身を以て体験した事を、同じようなやり方で今青少年に支援している。
変わったMr.青木は、中学でますます成長していくはずだった。
しかし、実際は、精神的におかしくなっていき、高校中退という人生を歩んでしまった。
もちろん中学で教えて頂いた先生方はすばらしかった。
私の能力がなかっただけだったのだ。
しかし、本音を言えば、もう少し川島、野村先生に寄り添ってもらう必要があったのだ。
「川島先生ありがとう」シリーズは今回で終了します。
人生の一時、すばらしい先生方に出会った経験は僕のその後の人生に大きく影響しました。
今、昔の自分のように、学校で社会で周りとうまくとけ込めずに、自分の存在を否定している人たちを私は支援しています。
計画通りに支援が進まず、その場に立ちすくむ事が何度もあります。
そんな時にどこからか「ミスター、青木!!できるんだ、君はやらないだけなんだよ」
あの声が励ましてくれるのです。
僕の人生で出会ったすべてのすばらしい先生方に心から感謝いたします。
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