私には支援が必要だということはわかっていましたから、フィリピンしか選択肢がなかったですね。
16歳で母と一緒でのフィリピン生活が始まりました。
嘘は言いたくないので、その時に感じた印象を言いますね。
フィリピンはとても汚なくて、落ち着きのない場所だとしばらくはそう感じていました。
今は、混沌とした中に、明日への変化が期待できる町ともいえますね。
私が滞在していたのは、マニラでも都会だと言われていた場所です。
その場所に限りますと、東京にあるおしゃれな場所とそんなに違いません。
ただ、本当に小さな場所だけでの話です。
一歩そのエリアから出ますと、16歳の私にはとても受け入れられない光景が広がっているのです。
匂い、喧騒、蒸し暑さ。
驚きがありました。
よくフィリピンは物価が安いと言っている人たちがいます。
確かに安いです。
でも、それはフィリピン人と同じような生活をすればという話です。
フィリピンで日本にいた時と同じ様な生活をしようと思うと、私は2倍くらいかかると感じていました。
フィリピンでフィリピン人と同じ様な生活は16歳の私にはできせんでした。
ですから食費や住居費も随分と高かったです。
もちろん、青木さんたちは、最初からそのようなことを言ってくれていました。
決して、安いなんて言い方はしませんでしたし、来る前にあまり良い印象を持たずにきましたから、それも良かったと思います。
3ヶ月程度でそんな場所での生活も慣れていました。
特に英語が話せるようになりたいというとても強い希望が私にはありましたので、フィリピンは最適な場所でした。
私には2人の支援者がついてくれました。
1人は日本語が上手なスタッフさんで、もう1人は私の家庭教師でしたが、非常に綺麗な英語を話す方でした。
朝から、晩まで2人の支援者がついてくれていたことは、当時不安な中にいた私にはとても助かりました。
また、1人のスタッフは大学で発達障害の勉強をしてきた方でしたし、青木さんのもとでしっかりと訓練をされていた方でした。
ですから、2人は私のお姉さんの様な感じに接してくれていました。
楽しかったですね。
友達に聞けない様なことも、彼女たちに聞いていましたので。
それと、通っていた学校で初めて友達ができました。
私が求めていたものは、それだったのです。
2人で、街をぶらぶらしたり、彼女の恋話を聞いたり、また違う友達も紹介してくれて、日本での生活と全く違うものがそこにはありました。
「お母さん、私って、友達いなかった人だったよね。でも今友達いるよ。私と一緒にいると楽しいってこの前メリーが言ってくれたんだ。」
そういうと私と母は抱き合って泣いてしまいました。
私には依然として、苦手さが多くあります。
発達障害の特性からくるものです。
それを改善していくことは簡単ではありません。
そんな私でもすぐにできたこと。
それは環境を変えることでした。
日本でうまくいかなくても、外国ならそうでもない。
外国でも何もかもがうまくいくわけじゃないけれど、少なくとも日本で感じた「死んでしまいたい。」という思いは感じることはありませんでした。
信じられないと思いますが。
他者との違いが普通に街に溢れているフィリピンなのです。
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