発達障害な僕たちから2

発達障害と診断され、2次障害でひきこもった東大、青木、シンゴと50代男Aとスタッフ吉村が社会復帰目指す日常を綴りながら支援についても書いていきます。

日本の大学よりも海外の大学が良いわけ。シンゴ

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先日、青木さんとこのブログ「発達障害な僕たちから」について話しました。

簡単に言いますと、記事に書かれてあることは全て僕に当てはまることです。

みんな同じなんだとホッとしたというか、笑ったというか。

 

 

そこで青木さんから、「ブログを書いてみませんか」と誘われました。

昔の私のように困っている人たちの助けになると思ったので書くことを承諾しました。

 

 

ただ、私は今まで文章など書いたことがないので、手直しをお願いしました。

 

 

これから、私は以下の流れで書いていきます。

 

 

1、私とこの団体との出会い

 

2、私の学生時代(小・中・高時代)

 

3、私が持つ苦手さとは

 

4、いかにして回復できたのか

 

5、今私が思うこと

 

 

昨日の続きです。

 

 

私の家に青木さんが来ることは、姉から知らされていました。

でも、もう手遅れです。

高校をやめてしまった時点で、全ての歯車が噛み合わなくなってしまったのです。

 

 

来ても意味がない。

私に残された選択肢は死ぬことしかない。

そう思い込んでいました。

 

 

青木さんが来ました。

最初はドア越しの声掛けにも応答はしませんでした。

しかし、やっぱりこの状況からなんとかして抜け出したいと思っていた私は、だから、部屋のドアをあけました。

 

 

 

そしたら、「部屋の中は気持ちが下がるので、外に行こう。」と誘われました。

「僕の車のドアには、スモーク処理が施されているから外から見えないので安心だよ。」と言われたので、車に乗りました。

 

 

郊外にある公園のベンチで話しました。

その時の話は以下の通りでした。

 

 

1、高校中退、資格、職歴なしではまともな仕事にはつけない。

もちろん人並み以上にやる気を出せばなんとかなるけれど、それはとても難しい。

このまま、アルバイトのような仕事で一生を終わるのかそれとももう一度やり直すのか。

 

3つの選択肢がある

 

 

1、日本の会社に入り日本人向けに働く

 

2、日本の会社に入り海外の部署を担当する

 

3、海外の会社に勤めて外国人向けに働く

 

 

1はどんどん縮小している

 

2は日本語が扱える外国人が進出している

 

3はまだまだ僕が入っていける余地は残されている

 

 

というか今後は3を考えていかないと生き残れない。

 

 

そう教えられて、私はその場でもう1度やり直す決断をしました。

もともと大学には行きたいと思っていました。

ただ、不安が強くて行けなかっただけです。

 

 

問題は母親でした。

「勉強なんかより働け。」とうるさいくらい私を追い立てていましたから。

姉がそんな母親と父親を説得してくれました。

 

 

 

この先、生きていくには、学ぶしか道はないのですから。

私は日本を後にして、フィリピンでもう一度やり直す事にしました。

 

 

 
 
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