発達障害な僕たちから2

発達障害と診断され、2次障害でひきこもった東大、青木、シンゴと50代男Aとスタッフ吉村が社会復帰目指す日常を綴りながら支援についても書いていきます。

高校中退、資格・職歴なしの僕の現実 シンゴ

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このドアの向こうに、昔の僕がいる。どんなことでもするから。さあ出るよ!!

 

 

名前はシンゴで、年は20代後半です。

ひきこもったのは高校1年の秋頃です。

 

 

17才の時にサポートセンターでお世話になりました。

その時に高卒認定試験を受けて、合格しました。

それから事務所に1年通って就労支援の練習をしました。

 

 

いろいろな資格を取って就職をしました。

資格といっても履歴書を埋めるためのもので、それで仕事に就けるような価値ある資格ではありません。

 

 

ハローワークに行ったけれど話になりませんでした。

資格も経験もない高校中退の人間が、応募して取ってもらえるほど、この世の中は簡単ではありません。

 

 

タウン雑誌で見つけた仕事に応募して就職しました。

営業職です。

お得意様のところを定期的に回って注文を取っていくのです。

 

 

3ヶ月で辞めさせられました。

ひきこもっていた私が営業なんかできないですよ。

完全に選択ミスです。

 

 

母親が「じっとしているとまたひきこもってしまうから、すぐに見つけなさい。どんなところでもいいのよ。働かせてもらえる場所があれば、それだけでありがたい。」

毎日、毎日、母親に追い立てられるので、すぐに探しました。

 

 

そこは工場でした。

フィリピン人とか日系ブラジル人の人が多く働いていました。

若い男性は私1人だけでした。

 

 

そこは居心地が良かったので、3年間働くことができました。

なぜ居心地が良かったかというと、淡々と自分の仕事をこなしていけば良いだけなので、ノルマがあったり、他の人と顔をあわせることもなかったので、気楽だったのです。

 

 

しかし、辞めました。

理由は、労働条件でした。

毎日、朝10時から残業で夜の10時まで働いていても、残業代がつかなかったのです。

 

 

時給で計算したら、コンビニで働く方が多く稼げます。

それでも、僕はもう新しい仕事を探す気力もなかったので、この仕事でいいやと思っていました。

 

 

ところがある日、フィリピン人と日系ブラジル人の人たちが全員会社に来なくなりました。

あとでわかったのですが、全員話し合って違う工場に移ったのです。

現場に来たのは私とパートのおばさん達だけでした。

 

 

それ以降、残業が夜の12時までの時もあって、もう限界を感じて辞めました。

 

 

私はひきこもりました。

母親は私に対して、「休まずに仕事を探せ。」とうるさく言いました。

とうとう、私はキレて母親の背中を思いっきり蹴りました。

 

 

そのことがあってから、母親は私を狂人呼ばわりして、実家に帰ってしまいました。

家では、姉と父と私の3人暮らしでした。

姉と父親は家でも、ほとんど何も話しません。

 

 

私は部屋からも出られなくなり、雨戸を閉め切って、独り言や奇声を発したりするようになりました。

 

 

エスカレートしていき、カッターで手や足を傷つけるようになりました。

できたら、包丁で心臓をひとさしして全てをおしまいにしたかったです。

 

 

ある日、あの人が私の家を訪ねてきました。

そこから私の新しい人生がスタートしたのです。

 
 
 
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