僕は小学校の生活についていけなかった。
多くの人がついていけているのに、僕は小学校生活が送れなかった。
みんなにできることが、僕にはできないことがわかったら、怖くなっていけなくなった。
そんな僕に必要な支援は何か?
小学校というのはすでに用意されているプログラムに子どもが合わせなければならない。
みんなに合わせられなくなったら、特別支援学級や保健室登校なども用意されていた。
それは学校が用意したプログラムにもう一度戻ることを前提としたものですよ。
でも、僕の大きな不安はそこには向かわせなかった。
不登校や発達障害の子どもの為のフリースクール、高校、塾などのパンフレットを母親が集めてきて、僕の部屋の扉の下からそれらを入れた。
「諦めないでください。あなたが学校生活を楽しめる場所がありますよ。」と母親は紙に書いてそれも僕に渡した。
豪華な表紙に興味を持って、それらのパンフレットを見てみた。
楽しそうにしている生徒たちの写真。
僕がその写真の中に入って、みんなと楽しそうにおしゃべりをしている姿を想像した。
まだ、間に合うな。
まだ間に合うんだとわかったら、涙が出てきた。
みんなと一緒にいたい。
みんなと一緒に笑い合いたい。
それが僕の唯一の願いだった。
でも僕は踏み出せなかった。
どうして?
答えは簡単です。
僕の悩みが、そのような学校でも解消できないことがわかっていたから。
〈配慮〉と〈理解〉という言葉が踊っていたパンフレットを見ても、僕にはダメだとわかっていた。
僕が必要としている支援は、今の僕に合わせて作ったオリジナルなプログラムだということです。
どんなに素晴らしい不登校のための学校でも、個別支援ではないでしょ。
僕は本当にどん底に落ちてしまっていたから、個別支援ではないと無理だとその当時に感じていたんだと思います。
丁寧にゆっくりと時間をかけて5年、10年という単位の中で自立の為のプログラムを考える。
僕はこのブログを読んで、僕が必要だと思ったことを実践されているとわかった。
あんなに程度の悪いヒロ師匠が、家族のような関わりの中で、支援されていき、見事に成長していく姿をなんどもなんどもこのブログで僕は確認した。
用意された支援にその人を当てはめていくような支援。
もちろんそんな支援でも状況が比較的軽い人ならそれで十分ということもあるよね。
でも、僕には、僕にあった支援が必要だった。
唯一僕に誤算があったのは、そんな支援が10年間も必要ではなく3年程度でよかったこと。
10年間もひきこもっていると、本当に悲観的に物事を考えてしまうようになっていたから。
僕は今、幸せだ。
お母さん、ありがとうございました。
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