発達障害な僕たちから2

発達障害と診断され、2次障害でひきこもった東大、青木、シンゴと50代男Aとスタッフ吉村が社会復帰目指す日常を綴りながら支援についても書いていきます。

心配と理解は違うのですよ、お母さん。東大

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大学内で日本人は私たちが支援してきた34歳の彼1人です。楽しんでくださいよ!!


 

 

子どものことを理解してください。

 

 

心配しているお母さんは多いのですが、こどものことを理解できているお母さんは少ないのです。

 

 

心配することと理解することは違います。

どんなに心配していても理解ができていないと、意味がないのです。

 

 

私の母親がそうでした。

小、中、高と優秀な成績で卒業して、すんなりと東大に入学できた私でしたが、30年近く家にひきこもってしまったのです。

 

 

その30年の間、母は私に対して嫌味を言ったり、追い立てたりすることは一切なかったのです。

むしろ、「大丈夫だよ。そのうちなんとかなるよ。」と笑顔を私にくれていた母親です。

 

 

もちろん母親は不安でした。

その不安を、親戚に対して、こぼしていたのです。

 

 

「せっかく東大まで出ていて、もう少しで誰もが羨むような企業に就職できるとろまで来たのに、どうしてこうなってしまったのかしら。」

 

 

親戚から、母の本当の思いを知らされた時には、ただ母親に対して申し訳ないという気持ちだけでした。

 

 

私は私で、内心強い焦りがありました。

どうしてこうなってしまったのかという強い怒りも感じていましたが、その怒りを解消することさえできずに、結局自分を傷つけることしかできなかったのです。

 

 

その焦りも40歳を超えたあたりから、諦めの気持ちが強くなっていきました。

 

 

まさか、ひきこもり続けて50代を迎えるとは、20代、30代の時には想像すらつきませんでした。

 

 

「大丈夫だよ。そのうちなんとかなるよ。」という言葉は単なる気休めでしかなかったのです。

もしかしたら、母親が自分の不安を打ち消すために、そのように言って自分に言い聞かせていたのかもしれません。

 

 

今、私は支援者の立場として、私の母親がどのように行動してくれていたら、ひきこもっていた私にはよかったのかと考えるのです。

 

 

それは、息子の私のことを理解しようと努めて欲しかったということです。

 

 

研究室で失敗をしました。

私の何がいけなかったのかもわからずに、教授から強く叱責されたことで、研究室に行けなくなり、その後30年間ひきこもってしまったのです。

 

 

母親は担当教授に直接会って、私に変わり謝罪をしましたが、すでに推薦が決まっていた企業への推薦を取り消されてしまいました。

 

 

全てが終わったのです。

何が問題で、どのようにすれば良いのかさえわからずに30年間を無意味に過ごしてしまいました。

 

 

6年前にサポートセンターに出会い、何が問題で、どうすれば良いのかを理解した私は、サポートセンターに全てを委ねて、回復に向かって努力したのです。

 

 

私は30年前のあの時に、母親に助けて欲しかったのです。

どうして私がひきこもったのか?

どうして、教授からはげしく叱責されたのか?

そして、今後どうすれば良いのかを母親から教えて欲しかったのです。

 

 

それができるのは1番身近にいる母親だけなのですから。

 

 

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