発達障害な僕たちから2

発達障害と診断され、2次障害でひきこもった東大、青木、シンゴと50代男Aとスタッフ吉村が社会復帰目指す日常を綴りながら支援についても書いていきます。

発達障害で不登校な僕が最初に受けた支援とは。ブン

 

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 僕を落ち着かせてくれた。

それがサポートセンターから受けた最初の印象。

 

 

 

小学校に行っていた時は、不安と恐怖と苛立ちで毎日が辛かった。

 

 

僕にはアトピーがあって、ストレスが原因だと思うけれど、とてもひどくなっていた。

とても痒くて、痒くてそれでイライラ度数はMAXだった。

 

 

それで母親にその怒りを当てていた。

母親を足で蹴ったり、母親に物を投げたりしていた。

もちろん手加減はしていた。

 

 

母親は何もしてくれない。

この辛さを理解もしてくれない。

そのことが僕の苛立ちをより大きくしていた。

 

 

「みんなと仲良くしないといけないでしょ。」

「どうしてみんなと仲良くできないの。」

「みんなが話終わるのを待ってから話してごらん。」

 

 

 

ハイハイハイハイ。

できねえから、困ってるんだろうが!!

同じことをなんどもなんども話すんじゃねえ。

 

 

まあ、小学校低学年はそんな言葉はかけないと思いますが、その時はそんな気持ちだったと思います。

 

 

学校でもイライラして、家に帰ってもイライラした。

どこにも落ち着ける場所はなかった。

 

 

フィリピンに行った。

行ってわかったけれど、日本人がいないのがとても良かった。

日本語を聞かなくて良いのがとても良かった。

 

 

別にサポートセンターじゃなくても、日本から離れるというだけで僕は落ち着けたとは思う。

とにかく日本では良い思い出なんか何もなかったから。

 

 

全てがストレスに感じた。

だから、その日本を離れるということは理にかなっているんですよ。

 

 

本当はアメリカに行きたかったけれど、そんな要望は違うと思ったので、フィリピンで我慢した。

 

 

もちろん最初は、世界中どこにいったって同じだと思っていた。

「こんなバカで最低な人間が変わるはずがない。」と信じ込んでいた。

 

 

いや、正直にいうと心の底では、変わりたいと願っていた。

みんなと仲良くしてもらえるような人間に変わりたいと願っていた。

 

 

しかし、正直な自分の気持ちを言葉にできないほど、自信を無くしてしまっていた僕だった。

 

 

そして、スタッフだ。

関わり方がうまいと思った。

訓練されていることはすぐにわかった。

 

 

適切な距離感というのかな。

それがわかっていたスタッフだった。

距離感なんて支援する人一人一人違うのに、それを理解しようとしていた態度はとても評価できる。

 

 

すみません、偉そうな言い方で。

 

 

漫才師の言葉に「つかみはOK!!」という言い回しがある。

 

 

僕もそう言いたかったな。

「サポートセンターの人たち、つかみはOK」って。

 

 

次回に続きます。

 

 

また、この団体は忙しいみたいだ。

中学生や高校生で不登校の子どもたちの支援を開始したそうだから。

 

 

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