発達障害な僕たちから2

発達障害と診断され、2次障害でひきこもった東大、青木、シンゴと50代男Aとスタッフ吉村が社会復帰目指す日常を綴りながら支援についても書いていきます。

小学校のクラスで僕は孤立していた。ブン

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助けてと誰に叫べば良いのかわからなかった小学時代の僕です。




 

 

僕は小学校4年から全く学校に行っていない。

行きたかったけれど、学校が怖くて行けなくなってしまった。

何に対して怖さを持ったのか。

 

 

 

クラスのみんなに対して怖さを持った。

みんなが普通にできることが僕にはできなかったから。

 

 

 

勉強ができなかった。

授業で先生の話していることがほとんど理解できなかった。

 

 

授業で先生が生徒に説明します。

「それでは、始めてください。」

「うん?何やればいいんだ。」

 

 

周りを見渡すと、みんな一斉に何かを初めています。

僕は隣の女の子に聞きました。

嫌な顔をされてこう言われた。

「先生!!ブン君が私の邪魔をします。」

 

 

 

「ダメじゃないか!!他人を頼らず自分でやりなさい。」と担任から言われた僕。

「先生、何をやれば良いのかわからない。」と言ったら、「どうして先生の話をちゃんと聞いていないの。」と怒られた。

 

 

先生から注意されていた僕に、遠くの席の生徒が「先生、何をやれば良いのかわからない。」と僕の声真似をした。

それを聞いた他の生徒がみんなで笑った。

 

 

そのことで、僕はもう学校をやめようと決心した。

これ以上ここにいては、僕は頭が変になってしまう。

ずたずたにされてしまう。

 

 

授業がわからない。

友達もいない。

 

 

どうせまた、家に連絡するんだろな。

もういいよ。もういいんだ。おしまいにしたい。

泣いてしまった。

 

 

それで、保健室に行った。

「先生、頭が痛いので家に帰りたい。」と保健室の先生に言った。

少したって、担任が来て僕の顔を見て言った、「お母さんに迎えに来てもらうようにしたから。」

 

 

その言葉が事務的に感じた。

その日が僕の日本での公教育の最後の場面です。

 

 

「死にたい。」と思っていました。

だって、みんなが行く学校に僕は行けなくなってしまったから。

学校に行けないのは僕だけだから。(実際は違うクラスにも保健室登校の人がいたらしいです。)

 

 

僕だけみんなと違っている。

僕は僕なりに一生懸命努力しました。

でも、みんなとうまくやっていけなかった。

 

 

そんな奴は生きていてはいけないんだ。

生産性のない僕が死ぬことが人類にとっては一番良い選択なのだ。

死ぬことを考え始めました。

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無視をされるのが一番こたえた。僕ってそんな存在なの?

 

 

クラスのみんなが日曜日に遊びに行くのに、僕は1度も誘われなかった。

みんなから、無視をされるということがどれだけ辛いことか。

僕がそこに存在すらしてないように振る舞われた。

 

 

その時のことを思い返すと、今でも涙が出る。

誰も、僕のことなんか・・・。

 

 

今僕は大学に通っている。

勉強はとても大変です。

でも、助けてくれる同じクラスの生徒がいるんです。

 

 

フィリピン人はみんなとても優しいです。

「日本人だからわからなくて当然だよ。

わからなかったら、恥ずかしがらずになんでも聞いてよ。」

 

 

みんな、みんな、とっても優しい。

今はとても満足している僕です。

自信もサポートセンターにつけてもらった。

 

 

でも。

それでも、僕はあの時もっと頑張って小学校を最後まで通って、卒業できなかったのかと思い返す。

本当は、卒業したかった。

 

 

今でもあの時の記憶がはっきりと蘇る。

僕以外、誰もそんなことは覚えていないだろうに。

長い時間、僕の心の時計はあの時を刻んだまま、止まってしまっていた。

 

 

 

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