発達障害な僕たちから2

発達障害と診断され、2次障害でひきこもった東大、青木、シンゴと50代男Aとスタッフ吉村が社会復帰目指す日常を綴りながら支援についても書いていきます。

自分の子どもが自殺未遂したお母さんとの出会い ジャイアン

 

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その後も2人の人が来ましたが、関心はなかったです。

無理に決まってる。

「僕は変わらない。」と変な自信がありましたので 。

 

 

その時の僕の状況を言い表すなら「混乱」です。

小学校から20代前半までの間ぼくの頭の中は常に「混乱」していました。

「混乱」でしかなかったです。

 

 

 

「今何をしたらいいのか?」

「これから先のことをどう考えるのか?」

何もわかりませんでした。

 

 

そんな時に母親から「この先どうするつもりなのか」と聞かれたらすでにいっぱいいっぱいな頭の中から何かが溢れ出して、僕は完全に機能停止となってしまいます。

 

 

母親は「どうするつもりなんだ」ということさえ一切言わなくなりました。

しかし、世話好きな親戚が、僕のマンションをわざわざ訪れて説教をたれて行きました。

 

 

「今なら、まだ大丈夫だ。真人間になって医学部に入れ。」

「何が不満なの?こんなに恵まれた環境に居らせてもらっているのに。」

「世間では経済的理由で大学に行けない人が多くなったって新聞に出ていたよ。」

 

 

 

僕は布団をかぶったまま耳を塞いでいました。

「そんな聞く耳を持たない態度ではこれからこの社会で生きていくことはできない。気づいた時には手遅れだ。」

 

 

 

「もういいからそっとしておいてくれよ!!」

「何もわからんくせにわかったような態度をとるお前たちは死んでしまえ!!」

「クソ野郎」

 

 

心の中で叫んでいました。

 

 

僕はもう疲れ果ててしまいました。

いつしか「自分の存在を消し去りたい。」

そう思うようになっていきました。

 

 

その一方で、どこかにきっと僕の気持ちを受け止めてくれる人たちがいるはずだ。

 

 

「誰かが僕に新しい道を指し示して、僕を希望の場所に連れて行ってくれるはずだ。」

 

 

そんなことを思ったり、「いやそんな人たちはいないし希望の場所なんて、学校をリタイアした僕にはたどり着くことなんてもう不可能だ。」

 

 

「助けてください。お願いします。どうかここから出してください。一刻も早く。」

祈るような気持ちでいました。

 

 

1ヶ月に1人の支援者が母親に連れられて僕のマンションにやって来ました。

その中に、サポートセンターのスタッフがいました。

 

 

その人は自分のことを語り始めました。

自分のお子さんが発達障害で、学校になじめなかったこと。

お母さんは発達障害はそんなに大変だと思わなくて、とにかく学校に行かせ続けようと努力した結果、お子さんが自殺未遂したこと。

 

 

そうして初めて、息子の悲しみ、辛さを何もわかってあげられなかった。と気づいたこと。

自分でこれは息子にとって良いことだと思ったことが全て違っていたことにようやく気づいたこと。

 

 

 

その人は泣きながら僕に話してくれました。

僕も布団をかぶって泣いてしまいました。

 

 

 

「あなたは自由です。」

「これからは誰もあなたに指図をしない。」

「今から、私たちと一緒に新しく生きて行きませんか。」

 

 

 

僕は布団の中で激しく泣きました。

 

 

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