発達障害な僕たちから2

発達障害と診断され、2次障害でひきこもった東大、青木、シンゴと50代男Aとスタッフ吉村が社会復帰目指す日常を綴りながら支援についても書いていきます。

サポートセンターの大規模就労支援施設が閉鎖。Mr.Joe

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本日はサポートセンター代表の青木さんから聞いた話を元にして書いています。)

 

海外に就労支援施設を作る。

日本でいいじゃないのか?

はい、その通りですね。

 

サポートセンターは、日本に就労支援施設を作っていました。

就労支援施設としては国内最大規模を誇っていたそうですよ。

 

 

 

非常に大きな倉庫で、佐川急便の孫請けとして、衣料の検品作業をしていました。

 

 

 今から20年前に就労支援施設を立ち上げました。

その人の能力に応じて、様々な仕事を作り出していました。

僕たちのような状況の人たちには、最適な職場でした。

 

そしてこの仕事をバックアップするために、パートの人を30人近く雇っていたそうです。

30人もの人を正規にパートとして雇えるだけの収益が得られる仕事でした。

 

研修を受けている人たちにも、ちゃんとしたお給料が支払える。

これがサポートセンター最大の強みでした。

 

30人のパートの方達には、募集段階から、この仕事の趣旨を説明して、共感してくださる方たちに集まっていただきました。

多くは障害を持つ子どもたちの親です。

 

全てがうまくいくはずでした。

もちろん、この状況を維持することが、どれだけ大変なのかもサポートセンターは、わかっていました。

 

実際、働いている人たちには、今まで見ることができなかった笑顔が見られたのです。

そして、支援を受けている人たちのモチベーションもとても高かったそうです。

実際、ここから実社会に巣立っていった人たちも出てきました。

 

今では福祉施設の責任者として働いている人。

建築現場で部下を率いて働いている人。

実家のクリーニング工場を父親の後継として働いている人。

などなど成果が出ていたのです。

 

 

しかし、この仕事は5年で閉じます。

理由は、色々ありましたが、仕事面で言うとノルマがあったからです。

 

 

この仕事は、短期間で衣料の検品をして、納品先に収めるという仕事です。

ですから、必要なのは正確さとスピードです。

 

もちろん、大変な作業はお母さんたちにやっていたただき、残りの仕事を色々と分けて、当事者の性格に合わせて、やってもらっていたそうです。

 

ですが、毎回、毎回、違う仕事になります。

仕事が変わるたびに、配置転換が必要です。

また、当事者の状況も様々でしたから、今まで以上にオーダーメイドの支援が必要だったのです。

 

その結果、スタッフが脱落していきます。

毎日、朝早く工場に出勤して、その日の段取りを組み、納品が終わって自宅に帰るのは、夜中だったそうです。

 

過酷な労働状況にスタッフが1人、また1人と辞めていきます。

 

もちろんサポートセンターの職員です。

強者たちばかりなのです。

しかし、体を壊すまで働いては、続けることができなかったのです。

 

 

そして、もっと大きなダメージがサポートセンターを襲います。

それは、また明日書きます。

 

 

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