本日はサポートセンター代表の青木さんから聞いた話を元にして書いています。)
海外に就労支援施設を作る。
日本でいいじゃないのか?
はい、その通りですね。
サポートセンターは、日本に就労支援施設を作っていました。
就労支援施設としては国内最大規模を誇っていたそうですよ。
非常に大きな倉庫で、佐川急便の孫請けとして、衣料の検品作業をしていました。
今から20年前に就労支援施設を立ち上げました。
その人の能力に応じて、様々な仕事を作り出していました。
僕たちのような状況の人たちには、最適な職場でした。
そしてこの仕事をバックアップするために、パートの人を30人近く雇っていたそうです。
30人もの人を正規にパートとして雇えるだけの収益が得られる仕事でした。
研修を受けている人たちにも、ちゃんとしたお給料が支払える。
これがサポートセンター最大の強みでした。
30人のパートの方達には、募集段階から、この仕事の趣旨を説明して、共感してくださる方たちに集まっていただきました。
多くは障害を持つ子どもたちの親です。
全てがうまくいくはずでした。
もちろん、この状況を維持することが、どれだけ大変なのかもサポートセンターは、わかっていました。
実際、働いている人たちには、今まで見ることができなかった笑顔が見られたのです。
そして、支援を受けている人たちのモチベーションもとても高かったそうです。
実際、ここから実社会に巣立っていった人たちも出てきました。
今では福祉施設の責任者として働いている人。
建築現場で部下を率いて働いている人。
実家のクリーニング工場を父親の後継として働いている人。
などなど成果が出ていたのです。
しかし、この仕事は5年で閉じます。
理由は、色々ありましたが、仕事面で言うとノルマがあったからです。
この仕事は、短期間で衣料の検品をして、納品先に収めるという仕事です。
ですから、必要なのは正確さとスピードです。
もちろん、大変な作業はお母さんたちにやっていたただき、残りの仕事を色々と分けて、当事者の性格に合わせて、やってもらっていたそうです。
ですが、毎回、毎回、違う仕事になります。
仕事が変わるたびに、配置転換が必要です。
また、当事者の状況も様々でしたから、今まで以上にオーダーメイドの支援が必要だったのです。
その結果、スタッフが脱落していきます。
毎日、朝早く工場に出勤して、その日の段取りを組み、納品が終わって自宅に帰るのは、夜中だったそうです。
過酷な労働状況にスタッフが1人、また1人と辞めていきます。
もちろんサポートセンターの職員です。
強者たちばかりなのです。
しかし、体を壊すまで働いては、続けることができなかったのです。
そして、もっと大きなダメージがサポートセンターを襲います。
それは、また明日書きます。
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