30数年ぶりに訪れた母校東大。感情が交錯しました。
30年間のひきこもりから回復してフィリピンになかば強制的に連れて行かれた僕です。
初回の2週間は徹底的に遊ばさせられました。
強制的に遊ばさせられたのです。
30年間ひきこもっていたんですよ。
ひきこもっていた部屋から30年ぶりに外に出て青木と会いました。
青木はその足で、パスポートを取る手続きを僕と一緒にしたのです。
それから2度目の外出がフィリピンです。
昼夜逆転の生活が数十年続いていました。
家の中で閉じこもっていましたので、体力も恐ろしくありませんでした。
そんな僕をフィリピンに連れて行く。
それは狂気の沙汰です。
フラフラになりながら、青木に支えながら行ったフィリピンです。
なんども同じことは書きたくないので省略しますが、1度目のフィリピンで僕の中で長いこと眠っていた何かが目を覚したのです。
そして僕はもう一度あのフィリピンの喧騒の世界に戻りたいと思いました。
あそこならば僕はもう一度精気を取り戻し、本来の自分を取り戻せるとも感じたのです。
2度目のフィリピンで早くも大学に行くことが決定していました。
あとで青木から聞いた話ですが、僕に関する5年間の回復プログラムは、2度目のフィリピンが決まった時にすでに決まっていたのです
スタッフに背中を押されて訪問した大学はフィリピンでもっとも優秀な学生が集まる私立大学でした。
しかし、そこは僕が通っていた私立高校や東大とは全く雰囲気が違っていました。
今まで書いてきましたが、東大は他人に関心を持たない生徒がおおかったです。
また、一目見ておかしいと感じてしまう生徒もいました。
多分東大の構内で見たので大丈夫だったのでしょうが、東大構内を一歩でるとたちまち、周りから好奇な目に晒されてしまうような生徒たちです。
少し言い過ぎではと思われるかもしれませんが、僕はそのように感じたのです。
それ以上に東大の教職者には違和感を感じた人たちがいました。
生徒の方を向かずに黒板と会話しながら授業を進める教師。
優秀な生徒の挑発に乗ってしまい、授業とは関係ないやり合いをしてしまう教師。
結局教師に「私の負けです。」と認めさせてしまった生徒の能力にも驚きましたね。
多分発達障害の割合が他の学校や団体よりも高いのが東大ではなかったのかと、今思います。
そんな大学でしたから、僕は僕のおかしさに目をやる必要がありませんでした。
そういう意味でとても快適だったのです。
勉強さえしていればよかったのですから。
しかし、その先には現実の僕と相対さなければならない時が待っていたのです。
僕はただ、自分の中の大きな問題を先送りしていただけだったのです。
しかも就職目前というその時になって初めて自分の問題に直面したのです。
万事休す。
それから30年間ひきこもってしまったのは全て自分のせいなのです。
そんな僕が、フィリピンの大学に通って感じたのです。
もしこの地で高校生から過ごしていたら、僕は全く違う僕になっていたのではないかと。
それほどフィリピンの大学の雰囲気は、僕の頑なな心を変えるのに十分すぎるほどの強力なホスピタリティを持っていたのですから。
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