発達障害な僕たちから2

発達障害と診断され、2次障害でひきこもった東大、青木、シンゴと50代男Aとスタッフ吉村が社会復帰目指す日常を綴りながら支援についても書いていきます。

家族も見捨てた程度の悪いアスペな俺その① ヒロ

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「落ち着きました宣言」出ました!!自分でそう感じるんですけれどね。
 

 

最初に断ったおきますが、僕の家族は素晴らしい家族です。

なぜなら僕は今、社会復帰ができているのですから。

そこまで家族は僕を支え続けてくれた訳ですから。

 

 

 

僕は10年前に家族から見捨てられた。

突然事務所にダンボール3箱が届けられた。

中身は僕のアルバムやら中学校卒業証書、ぼくの大切なドラゴンボールのフィギュアだった。

 

 

そして家族はマンションを売り払って、どこかに消えた。

サポートセンターに「後のことはよろしくお願いします。一緒に住むことはもうできません。お許しください。」と伝えて。

 

 

 

家族が僕を見捨てる理由があるはずです。

 

 

実の子どもを見捨てるのですから、普通にはありえないような理由があったんだと思って欲しいのです。

 

 

 

僕は小さな時から大変手がかかる子どもだったそうです。

公園の滑り台で前の子がなかなか滑らなくてイライラした僕は、前の子どもの背中を思いっきり押してしまいました。

 

 

その子どもは滑り台から頭を下にして落ちて、大怪我をしました。

周りの大人がその子どもに駆け寄っていた時、僕は空いた滑り台を喜んでなんども滑っていたそうです。

 

 

幼稚園には大暴れして行きませんでした。

幼稚園に行ったとしてもジーとはしていませんでした。

そしていつも1人でブツブツ言いながら遊んでいたらしいです。

 

 

とにかく周りの人の存在を無視するかのように過ごしていたそうです。

ですから、両親と僕との交わりは何もなかったと言っていました。

 

 

愛する我が子との交流が何もなかった。

どれだけ両親は悲しんだことでしょう。

父親が動きます。

 

 

 

当時父親の仕事の関係でアメリカにいました。

およそ30年前ですが、専門病院でADHDと診断されました。

もしかしたら日本人で一番最初に発達障害と診断されたのは僕かもしれません。

 

 

 

すでにアメリカではその時点で色々な療育方法が確立されていました。

それを父は僕に受けさせていました。

残念ながら、母は自分から子どもを取り去られたと感じていたのでしょうか。

 

 

 

アメリカでの療育には賛成ではありませんでした。

しかし、アメリカでの療育は効果があったと父親は話していました。

僕が落ち着いてきたのです。

 

 

 

その当時のアメリカはADHDと診断された子どもに薬を処方することが主流だったそうです。

しかし、僕の担当してくださった方は薬ではなく療育で変えられるという考えの持ち主でした。

 

 

 

そのまま僕はアメリカにいたら、もしかしたら大好きな宇宙の世界で例えばNASAなんかで働けていたかもしれないと父は昔よく話してくれていました。

 

 

 

そんな僕でしたが、日本に帰国してから大変な状況になってしまいます。

 

 

今回相談を受けた中に、「自分のお腹を痛めて産んだ子だけれど、どうしても愛せない。親に全く懐かない。それどころか、反社会的な行動ばかりしていて、将来が不安だ。」という話をしてくださったお母さんがいました。

 

 

その話を聞いて、それは自分だと思いました。

そしてお母さんの泣く姿を見て、僕はそのお母さんに「ごめんなさい」と謝りました。

 

 

それは未だに自分の母親に対して謝罪することができない悲しさからしたことでした。

 

 

 

僕は自分のことを何度もなんども書き続けていこうと思いました。

 

 

「こんなひどい状況になった子どもでも、変わることができるのです」

 

 

それをお伝えすることが僕の一番の使命かもしれません。

 

 

 

ではまた明日。

 

 

 

 

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