発達障害な僕たちから2

発達障害と診断され、2次障害でひきこもった東大、青木、シンゴと50代男Aとスタッフ吉村が社会復帰目指す日常を綴りながら支援についても書いていきます。

母への憎しみから解放された僕。ジャイアン

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青木さんの報告を受けて僕は驚きと落ち込みが激しかったです。

 

 

スタッフさんからは、「どうしようもできないこともあるので、現実を受け入れないといけない。」と言われましたが、簡単にそれはできることではありません。

ずーっと長い間、こだわり続けていたことですから。

 

 

 

青木さんに教えてもらった妹の携帯に電話しました。

妹と話をするのは3年ぶりくらいでした。

 

 

 

「元気でやっているのはサポートセンターからの報告でわかっていたけれど、それにしても日本を離れて、違うな、母親と離れてよかったんだね。」

 

 

「最近、彼女もできたそうで、すごい変わり様だね。昔の兄貴しか知らないからね。本当に驚きだよ。」

 

 

相変わらず、自信に満ちた妹の話し方を聞いて羨ましく思いました。

 

 

「落ち着いてきたから、過去のことを考えられるまでになったんだろうけれど、自分の中で完結して、決して母親との交流を持つことを望まない方がいいよ。」

 

 

「もう私たちの手の届かない所にいるんだからね。今、兄貴と私がやらなければならないことは、自分たちの将来を考えることでしょ。」

 

 

「母親のことはお兄さんにお任せして、特に兄貴は母親に振り回されてきた人生だったじゃない。取り返すくらいしないとね。」

 

 

「私は再来年にアメリカに留学するよ。その後はどうするかは未定。いずれは父親の後を継ぐことになるけれど、それまでは自分の好きな様にさせてもらうから。」

 

 

ようやく妹が話すことをやめたので、僕が話しました。

「ぼくのせいで、家の中がくちゃくちゃで、随分と◯◯子には迷惑をかけたね。本当にごめんな。」

 

 

「違うよ、謝らなきゃいいけないのは、私の方だよ。母親の関心事が全て兄貴の方に行ってしまったことで、私はのびのびと生きてこられたよ。すべて兄貴がいてくれたからだよ。」

 

 

そう妹が言ってくれただけで肩の荷がおりました。

「とにかく、1日、1日を大切に生きていきたいな。自分はこうだって決めつけずに、頑張れるだけ頑張りたいね。」

 

 

「大学の授業はすべて英語なんでしょ。今で、何割くらいわかるの。」と妹の関心は母親とのことから、留学に変わった様です。

 

 

妹との電話を切ってから、何か自分の体がとても軽くなった気がします。

僕はひきつづき、スタッさんたちと過去の出来事の整理を進めていきました。

 

 

もちろんできないこと、苦手なことも毎日の様に練習をしました。

 

 

母親は、妹の情報では処方された薬が効いているのか、大人しく毎日淡々と過ごしている様です。

 

 

今、思うのです。

「僕たち家族は一体何だったんだろう」と。

 

 

それ以降の妹との会話で納得できたことは、「父親もアスペルガーで、母親もアスペルガー、マイナスどうしが結ばれて、できた環境は劣悪な家庭環境。できた子どもも同じくアスペルガー、その子どもは大変な家庭環境下で、2次障害を起こした。アスペルガーの特徴を引き継がなかった妹は盾となった兄貴のおかげでのびのびと育って行った。」

 

 

「ただそれだけのこと。それで終了でいいでしょう。関心があって少しは勉強したんだからね。」

「間違っても『毒親』なんていう考えを持たないこと。」

 

 

2018年4月21日(土)僕の中で、母親との確執がなくなっている。

 

 

明日が僕の最後のブログです。

長い間、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

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