発達障害な僕たちから2

発達障害と診断され、2次障害でひきこもった東大、青木、シンゴと50代男Aとスタッフ吉村が社会復帰目指す日常を綴りながら支援についても書いていきます。

問題は僕の家族にあった。ジャイアン

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初めてブログを書きます。

支援が終了するということで、書けるならば書いてください。

一つの区切りとして。

 

 

僕は文章を書きたいとは思いませんでした。

サポートセンターでお世話になりながらも、この「発達障害な僕たちから」というブログの存在を最近まで知りませんでした。

 

 

この団体は徹底的な個別支援です。

「オーダーメイド」支援とも言われています。

だから僕は、この団体が他にどれだけの人を支援しているのかも知りませんでした。

 

 

 

ただ、この3月末でぼくの他に4人の人たちが、この団体からの支援が終了するということを聞きました。

 

 

他の方々のブログを読まさせていただき、改めて、この問題が「家族の問題」だということをぼくは強く感じます。

 

 

僕は医者の家庭に生まれました。

両親とも医者です。

そして開業医です。

 

 

3代に渡って医者をしています。

当然4代目のぼくはとても期待されていました。

とてもとても。

 

 

小さい頃から、僕は「こだわりがとても強い」子でした。

図鑑を持って野原に出かけて、野に咲く花や生き物たちを図鑑で調べるのがとても大好きで、毎日日が暮れるまで時間を過ごしていました。

 

 

寝るときも、「明日はあそこに行こう。」

そう考えるだけで、ワクワクしてなかなか寝付かれなかったことを覚えています。

 

 

しかし、そんな日々も「受験」という名目で、取り上げられてしまいました。

それからは勉強一筋です。

 

 

「良い成績をとったら、また野原にいけるよ。」という母親の言葉を信じて一生懸命勉強しました。

 

 

しかし僕は学校というところに馴染むことができなかったのです。

制服がいやでした。

じーっと椅子に座って授業を聞かなければならないのが窮屈でした。

 

 

やがて、全身に発疹ができたり、突然ひどい高熱が出たりして、学校を休むことが増えてきました。

 

 

そして学校に行くことを渋るようになったのです。

母親の車に強制的に乗せられて、学校まで送り届けられたりもしていました。

 

 

その場に座り込んで、絶対に動くもんかと駄々をこねたりもしていました。

強制的に連れて行かれても、途中で脱走したりもしました。

 

 

そして母親は僕を叩いたりし始めたのです。

ご飯を与えられなかったり。

押入れに押し込まれたりもしました。

 

 

いつしか、両親に対して強い憎しみを持ち始めました。

「殺してやりたい」とまで思いました

両親が幼いぼくにしたことは、ただの暴力です。

 

 

 

ジャイアンはあだ名です。

小さい時から体がみんなよりふた回りも大きくてそう呼ばれていました。

大きな体だけれど、心は強くないです。

 

 

ぼくの文章は他の家族の人たちまで否定しているわけではないです。

最後まで読んでいただいてから、判断してください。

よろしくお願いします。

 

 

 

明日に続きます。

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