発達障害な僕たちから2

発達障害と診断され、2次障害でひきこもった東大、青木、シンゴと50代男Aとスタッフ吉村が社会復帰目指す日常を綴りながら支援についても書いていきます。

発達障害者支援 俺の支援は日本でよかったんじゃないの

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                                     話せ! ! 話せ!!  話せ!!

 

 

今回青木さんと話していた時に、青木さんがボソッと俺に話したことがあった。

支援を依頼されたご両親から質問を受けたんだ。

 

 

「支援をするのにフィリピンでないといけないんですか」と。

 

 

青木さんはいろいろとその人にあった支援計画を考えている最中にご両親から突然言われたのですぐに返答はできなかったんだ。

 

 

で、こう答えた。

 

 

「高校を卒業していなくて、アルバイトの経験さえない40代の方にどのように支援すれば良いのでしょうか」

 

 

そんな風に言えばご両親は何も言えなくなってしまいますよ。

続いてこう答えたんだ。

 

 

「気持ちを前向きにしてやり続けるのには思い切って環境を変えるしかありません」

 

 

確かに、誰でもフィリピンでの支援を行うわけじゃない。

10代でまだそんなにみんなから離されていない場合。

それは日本で十分に支援ができるからね。

 

 

そして、別にサポートセンター名古屋でなくても支援ができるのでその場合は違う団体をご紹介しているんだ。

つまり10代でも俺のように既に同世代の中には簡単に戻ることができない人。

 

 

既に10年以上ひきこもっていて何をどうしていいのかわからなくなってしまっている人。

そんな人たちは思い切って環境を変えて1からやり直したほうが早いんですよ。

 

 

俺がサポートセンター名古屋に島流しにあった当初、サポートセンター名古屋はとてつもない大きな物流倉庫を運営していた。

テニスコトーが4面以上入る程度の広さだ。

 

 

駐車場は50台くらいだったかな。

多分日本一大きな支援施設だったに違いない。

その施設だけでスタッフが30人以上働いていた。

 

 

そんな支援施設と海外での支援場所も確保していた。

 

 

日本と海外との二つのコースが共存していた。

で俺は日本国内のその巨大支援施設で日夜就労と心のケアーを受けていた。

 

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この写真は二つ目でしょ。一つ目の工場の写真もしかして紛失したとか?

 

3年経って、俺は日本から南へ4,000キロ離れた小島に島流しにあった。

 

 

以来6年?俺は全く違う環境の元、沢山の人達からの御愛を受けて育った。

そしてちっとはマシな人間になった。

 

 

つまり日本での支援は効果がなかったということだ。

フイリピンでもダメかもしれないとの可能性はあったらしい。

 

 

 

そうしたら障害者枠でどこかに居場所を探すしかないと思われていたんだ。

 

 

俺への支援は、言語を変えて、住む環境もがらりと変えてしまった。

支援する人たちも青木さん一人を残して総入れ替えでもう一度フィリピンでゼロからの支援を開始したんだ。

 

 

それが俺には大当たりだったんだ。

 

 

そして、それはAさんにも当てはまる。

そして最近ではデカ目ヒロさんにも当てはまるんだ。

 

 

 

青木さんがAさんを見て言った。

これが答えなんだよね。

 

 

Aさんの支援を開始するかどうかはまだわかりません。

ご両親との十分な話し合いが数度持たれて双方が納得して初めて支援をお引き受けるんですよ。

 

 

下記の事をどこかで書いておきなさいとスタッフから言われました。

支援をお引き受けすることは簡単なことではないからです。

 

 

高卒認定に合格するにはどの程度の期間を見ているのかそして費用は?

フィリピンの大学の年間必要経費は?

そんな事を事細かく話し合う必要があるんです。

 

 

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